学者の試行錯誤ツイートについて。

 本日の日記は、学者の一般的な印象に関する話である。

 先日友人に、学問で食えないと愚痴を言っていた。そうしたらその友人に、「そういえばずっと前の音声の解説面白かったよ」と言われた。音声は私の専門である。それはそれで嬉しいのだけれど、その友人はそれを私の作業への最大限の肯定として言っていたのが残念でもあった。なぜ残念なのかといえば、解説こそが学者の仕事だという印象を抱かれていることがなんとなく分かったからである。付き合いの長い友人で、これからも付き合っていくだろう友人がそういう感じなので、おそらく周りに学者がいない人は、テレビや新聞で解説している学者の印象しかないだろうと思う。

 学者の作業で最も多くの時間を割かねばならないのは、研究に関する試行錯誤であり解説ではない。特に、素人への解説はエンターテインメントの側面が強いので、作業の中心とはならない。また、順序立てて公式のようなものを当てはめていけば結果が出ると勘違いされていることも多いが、むしろ試行錯誤の末に公式を創り出すのが学者の使命である。

 このあたり、なぜ勘違いされるのだろうと思っていたが、それは試行錯誤している姿を周りに見せていないからだと思う。私は現在、自宅で両親とともに住んでいて、そこで研究をしているのだが、最初はやはり研究に関して理解してもらえなかった。そんなある日、パソコンが壊れ、ヘッドフォンジャックをパソコンに挿していても内蔵スピーカーから音が漏れるようになった。結果的に、両親は数ヶ月間ずっと私が作った変な音を聞きつづけることになり、ようやく試行錯誤というものが何であるかということを理解するにいたった。そして研究作業がどのようなものかも分かったようであった。やはり、試行錯誤している姿を見せないと、研究を理解してはもらえないのだ。

 今、twitterで学者を見ていると、「最近の若い者は」というツイートや、教育に関する愚痴や、研究費への文句や、論文の締切りで忙しいという話や、任期の切実な身の上話や、言いようもなく辛いという心情吐露や、研究のhow toなどであふれている印象であり、肝心の「今日も実験に失敗した」「今日も分からなかった」「今日も思いつかなかった」というツイートがほとんどない。研究をしていれば毎日のようになんらかの失敗しているはずであるが、それがない。それでは学者の作業が一般の人に分からないのも仕方がない。

 私は、twitterでは将棋観戦クラスタにいるのでほとんど将棋のことばかりツイートしているが、google+では具体的な内容までは踏み込まないまでも実験失敗報告を結構書いている。意識的に書くようにしている。そういった類のことを多くの学者がツイートし始めたら、学者への印象が変わるんだろうなと思う。