冒険の書が消えた世代

 私の親は団塊の世代で、その下には新人類が存在する。また、私よりも下にはゆとり世代がいる。にもかかわらず、私たちの世代に名称が着いていないのは寂しいと思う人は結構いるようである。

 朝日新聞は我々に「ロストジェネレーション」という名前をつけた。私たちは何をロストしたというのだろう。動詞のみで目的語をつけないのは日本人の悪い癖である。オシムの「考えて走るサッカー」という目的語なしのフレーズをもてはやすことくらい(朝日新聞は)何も考えていないように思える。

 団塊の世代というのはよいネーミングだ。団塊の世代の親たちがたくさん子供を産んだのだ。新人類というのも、当時の大人たちが新入社員たちをどのような目で見ていたのかがよく分かる。ゆとり世代も、その年代に大人たちが何を与えたのかがよく分かる。要するに、世代のネーミングというのは、大人たちからの視線が感じられなければならない。世代の主語は当人たちではなくその上の世代なのだ。

 私は28歳だが、私が六歳くらいのときにファミリーコンピュータ任天堂から発売された。これがおそらく大人たちの創り出したものの中でも特に私たちに影響を与えたものだと思う。だから、「ゲーム世代」「ファミコン世代」というネーミングもありだと思うのだが、ゲームは一つ上の世代もやっていたし、私たちはPS2なども遊んでいる。世代のネーミングには私たちにしか分からない感覚を忍ばせたい。

 この「私たちにしか分からない感覚」=「内輪受け感覚」というのも、特徴の一つだろうと思うが、それは新人類たちも持ち合わせている感覚のようであるので、置いておく。

 ファミコンの史上でベスト2を選べといわれたら、私は「スーパーマリオブラザーズ」と「ドラゴンクエスト3」を選ぶ。そして、個人的に思い入れが強いのは「ドラゴンクエスト3」である。休み時間には、「ラーミア」「やまたのおろち」「ゾーマ」「バラモス」などのキーワードが飛び交った。もちろん、「ドラゴンクエスト3」をプレイしていない人もクラスの中にそれなりに多くいたが、「ドラゴンクエスト3」を知らない人はいないと思う。

 「ドラゴンクエスト3」には頻繁に出てくるメッセージが数多くある。「そのほうこうにはだれもいない」「しかしたからばこはからっぽだった」「しんでしまうとはなさけない」などである。どれも、私の世代をよく表しているように(なんとなく)感じてしまうから不思議である。その中でも特に印象的なのはバッテリーバックアップが消えたときのメッセージで、これが非常に時代背景ともマッチしているように感じられるので、私は「冒険の書が消えた世代」という少し長い世代名をつけたい。

 「ロストジェネレーション」は何をロストしたのか。それは、冒険の書という名前のログファイルなのである。私たちは積み上げた大切なものが簡単に消える瞬間を目の当たりにしている。私たちは能動的にリセットボタンを押すことはしない。だから、決して「リセット世代」などではない。私たちに明日はあるが昨日はない。

 なお、その後、私が高校生のときに「エヴァンゲリオン」も登場したが、これは見ていない人が多すぎ、且つ、親たちにとって「エヴァンゲリオン」は名前だけしか知らないものであるので、世代を代表させるには少々力不足である。

 というこの記事を読んだ上の世代がさらに適切な名前をつけてくれたら嬉しい。世代名をつけるのは上の世代であり、また、「冒険の書が消えた世代」は世代名にしてはやはり長い。



 と、誕生日なのでどうでもいいことを書いてみた。