大学の学習内容の整備。

 高校までで習う知識と、大学の講義を受けるにあたって必要な知識との間に、不整合があるというエントリを読んだ。これである「本当に「ゆとり教育に伴う思考力の低下」が原因なのだろうか? - Thirのノート」。私の第一印象は、「だからどうした」というものだった。ギャップがあるのならば、自分で勉強をすればよい。さもなくば、教員が易しい講義を用意するのを待つのではなく、能動的に易化を促せばよい。「我々にはここまでの知識しかないのでそのつもりで始めてほしい」ということを各教員に対して報せるのである。こういう問題意識を持つ学生というのは世代に関係なく存在するものであり、過去の世代の学生たちは「授業が難しすぎる/易しすぎる」ということを教員に面と向かって伝えてきた。私の高校ではかつて「教科書に載っていることは読めば分かるから載っていない部分の授業をしてくれ」と依頼した人たちもいるらしい。言及しているエントリとは逆のケースである。とにかく、ギャップがあるならば、学生が変わるか教員を変えるかして、埋めればよいのである。

 とはいえ、大学の学習内容の整備を望む声も分からなくはない。

 ここから先は、情報がかなり不確かである。もしかしたら事実とは異なることを書いているかもしれないのでそのつもりで読んでほしい。

 私が大学院生のとき、仲良くしていた別の学科の別の研究室の中国からの留学生がいたのだが、彼女はこんなことを言っていた(会話は極めて流暢な日本語でおこなわれた)。そろそろ博士号がとれそうな彼女に対し、私が学位取得後の進路希望を尋ねると、日本の大学で教員をやりたいと答えた。そして中国で教員をするつもりはないとのことだった。私が中国で教員になるにあたってのデメリットを尋ねると、彼女は面白い話を教えてくれた。

 彼女は修士課程から日本の大学院で学んでいるため、中国の教科書に慣れていないというのである。どういう意味なのかが分からなかったので、私は詳しく聞くことにした。曰く、中国の修士課程というのは教員が自由に教科書を選ぶのではなく、定められた教科書に則って講義をするらしいのである。そのため、修士修了時にどのようなスキルがついているのかということが分かりやすいらしい。修士を出た学生に何ができるのかが分からない日本とはかなり状況が異なるようである。そういうわけで、中国の修士課程で講義をするときには中国の教科書に慣れておく必要があるとのことだった。なお、学部と博士課程がどうなっているのかという話はしなかったが、おそらく学部も学習内容が整備されていることだろう。

(もう一度書いておくが、彼女の話が間違っていたり偏っていたりする可能性はある。彼女は嘘をつくような性格でもないし、日本語も極めて流暢に話すことができるが、それでも彼女にとって日本語は外語である。母語でない言葉で正確にものごとを伝えるのは難しい。)

 ほかの国とはいえ前例があるのだから、日本の大学でも国レベルでの学習内容の整備は実現可能のはずである。でも、個人的には整備してほしくはない。