自己制限と「あきらめたらそこで試合終了ですよ」。

 かれこれ知り合ってから十年くらいになる海燕さんがラジオで「あきらめたらそこで試合終了ですよ」という科白について語るそうである。そのラジオに先駆けて、「あきらめたらそこで試合終了ですよ」という言葉の意味。というエントリを書いている。本来、私のブログでは扱うことのない話題なのだが、書き手が海燕さんであるということで、少々思うところを書くことにする。

 まず、海燕さんは「あきらめたらそこで試合終了ですよ」という科白から次のような教訓を導き出している。

一見すると、「夢」「無謀」「不可能」に思えることが、実は努力さえすれば届く目標に過ぎないこともある、といっているのである。

 そのとおりである。不可能だと思ったことが実は可能だったという話はよくあることである。科白から導き出される教訓としてもこれは妥当だと思う。問題はその先である。

なぜ、ひとはセルフリミットを設定してしまうのだろう。
(略)
じっさいにはまだやってみていない、つまり現実になっていないことを、ロジックによって結果を導き出そうとする作業である。

 海燕さんは、なぜ可能であることを不可能だと思いこんでしまうのかということに対して、「ロジック」あるいは「理」あるいは「シミュレーション」という言葉で答えている。具体例はこのような感じである。

たとえば、いまの成績と、試験までの期間、それまでの成績上昇曲線を計算して、受かりそうな範囲で受験する学校を決めたりする。

 これを私の言葉でいうならば、「戦略」ということになる。しかしながら、どうにも「諦める瞬間」に「ロジック・理・シミュレーション」などを考えているとは思えないのである。どちらかといえば、諦めるときには直感とか情緒的なものが大きいのではないだろうか。

 もちろん、「ロジック・シミュレーション」によって諦めることもある。例えば、プロの将棋である。プロ棋士たちが「なんだか中途半端なところで投了を告げている」と思っている人は多いと思うが、ほとんどの投了は「ロジック」によっておこなわれている。簡単な例でいえば、盤上に詰め将棋ができあがってしまっている局面で投了している。十数手先で必ず詰まされるという局面である。また、難しい例でも、それに準ずる局面で投了を告げている。

 でも、ほとんどの「諦める瞬間」はやはり情緒的な面が大きく出たときに訪れるのではないかと思うのである。そして私は、情緒的に「もう無理だ」と思う人を肯定したいと考えている。なぜなら、それが精神的・肉体的に健康な人間の判断だと思うからである。

 これは先日、ちょっとした研究会のあとの飲み会で喋った話なのだが、私は、諦めどころを察知することができる人ほど健康であると思っている。どうしてそう感じるのかといえば、私自身が肉体的な限界を察知することができずにある日突然倒れることが多いからである。一度倒れると、三ヶ月から六ヶ月程度まともに活動できなくなる。自分でも知らず知らずのうちに無理をしているのである。

 また、私でなくとも、身体的な限界を超えると体調を崩すだろうし、精神的な限界を超えると心の調子を崩すことだろう。諦めたいという直感は、大きく状況を悪化させる前の危険信号である。

 限界を察知する能力・諦めて試合終了させる決断力というのは重要なのである。海燕さんが挙げているマンガにも、そのことは書かれている。エントリの元ネタである「スラムダンク」でも、諦めなかった主人公は最終的にああいった状況に陥っている。また、「ベイビーステップ」では、トレーナーが頭と体の乖離について語っている場面が印象的である。

 それから、社会的な意味でも、限界を察知する能力というのは重要なのではないかと思っている。マンガでいえば、「DEATH NOTE」である。あれは、社会的な無理を重ねる様子を描いたマンガだと思っている。また、現実ではライブドア事件の前までのライブドアがそれに当たるのではないかと思っている。

 私も体を壊す前までは体育会系だったので、限界を無視する「あきらめたらそこで試合終了ですよ」という科白は好きである。でも、限界を察知する能力はそれ以上に重要だと感じている。