勝手には進歩しない科学。

 さて、今年もどうでもいい話から始まる。

 少し前のことになるが、旧くからの友人とコンピュータ将棋の話になった。友人がそれほど詳しくない類の話である。私が「頑張って作っているんだけどなかなか上手くいかないんだよねえ」と言うと、友人は何かに気づいたように「そうなんだよねえ。コンピュータを強くしている人がいるんだよねえ。でも、なんだかコンピュータは勝手に強くなるイメージがあるんだよねえ」と言った。

 友人のその感覚はおそらく普通のものであり、世の中の多くの人にとって「科学は進歩する」ものであり、「科学を進歩させている誰かの存在」を感じることはほとんどないのだろう。その友人は私の日記をずっと見ている人であり、私が日々科学(技術)を進歩させようと努力していることを知っているはずなのだが、それでもイメージとしては、「科学は勝手に進歩する」なのである。

 似たようなことは他のあらゆる職業(特に抽象的なもの)にもいえる。例えば、「雇用が減っている」と言われているが、おそらく雇用者にとっては「雇用を創出しづらくなっている」が実感だろうと思う。また、「山手線は二分間隔で電車が来てすごい」ではなく、「山手線従事者はすごい」である。

 何か便利なことや不便なことがあるとき、そこにはそれに携わっている人がいるはずなのだが、なぜかそれらの事実は忘れられ、結果の現象だけが語られる。携わっている人の存在が尊重されれば、きっとあたたかい社会になるんじゃないかと思うのだが、世の中は逆の方向に向かっているように感じる。

 科学がひとりでに進歩することはないし、電車がひとりでに走ることもないし、魚がひとりでにちくわになることもない。目の前に法隆寺があったなら、そこにはやはり宮大工がいたはずなのである。でも、ものやサービスばかりが目に入り、たとえ現実的にそれらに尽力した人がいたとしても、その人たちの存在は慎重に隠されているのだった。クールだといえばクールだし、冷たいといえば冷たい。