行間には何が存在しているのか。

 タイトルには「行間」と書いたが正確には「文と文の間」の話である。今日の日記では、「文と文の間」には何が存在していて、それがどれくらい大事かということを語ろうと思う*1

 まず最初に、なぜこんな話をしようとしたのかを説明しておこうと思う。最初は、「美しい文とは何か」について語ろうと思っていた。そして、その「美しさ」の定義を考えていくうちに、私が美しいと感じる文章は全て「文と文の間」に何かがしっかりと存在しているということに気づいた。その「何か」を私は「接続関係」と名付けた。

 美しい文章には「接続関係」が存在する。

 では、私のいう接続関係とはなんなのか。簡単に言ってしまえば、文Aと文Bがこの順番で並べられていたとき「文Bは文Aとどういった関係にあるのか」を説明したものである。以下に具体例を挙げる。先に書いておくと、下の長い引用部分を読む必要はない。


 最近東京を騒がした有名な強盗が捕まって語ったところによると、彼は何も見えない闇の中でも、一本の棒さえあれば何里でも走ることができるという。その棒を身体の前へ突き出し突き出しして、畑でもなんでも盲滅法に走るのだそうである。
 私はこの記事を新聞で読んだとき、そぞろに爽快な戦慄を禁じることができなかった。
 闇! そのなかではわれわれは何を見ることもできない。より深い暗黒が、いつも絶えない波動で刻々と周囲に迫って来る。こんななかでは思考することさえできない。何が在るかわからないところへ、どうして踏み込んでゆくことができよう。勿論われわれは摺足でもして進むほかはないだろう。しかしそれは苦渋や不安や恐怖の感情で一ぱいになった一歩だ。その一歩を敢然と踏み出すためには、われわれは悪魔を呼ばなければならないだろう。裸足で薊を踏んづける! その絶望への情熱がなくてはならないのである。(梶井基次郎「闇の絵巻」冒頭)

 以下の引用は私の説明とともに読んでほしい。

 最近東京を騒がした有名な強盗が捕まって語ったところによると、彼は何も見えない闇の中でも、一本の棒さえあれば何里でも走ることができるという。その棒を身体の前へ突き出し突き出しして、畑でもなんでも盲滅法に走るのだそうである。

 ここには二つの文がある。一つ目の文には「ある人は闇の中でも一本の棒があれば走ることができる」と書いてある。そして二つ目の文には「その棒の使い方」と「どこをどのように走るのか」が書かれている。つまり、二つ目の文は一つ目の文の情報を補っている。ここには「前の文の情報を補う」という接続関係が存在する。

 私はこの記事を新聞で読んだとき、そぞろに爽快な戦慄を禁じることができなかった。

 次の段落にはこのように書かれている。ここでは前の段落を受けて「前の段落を語り手は新聞で読んだ」ということと「読んだときの簡潔な感想」を説明している。「前の段落の情報源とそれに対する作者の態度」を示すという接続関係である。

 その次の長い段落では、「作者がどのような『爽快な戦慄』を感じたのかが説明されている。つまり、「前の段落の詳細」を示すという接続関係である。

 闇!

 ここで、その段落の主軸を提示している。

そのなかではわれわれは何を見ることもできない。より深い暗黒が、いつも絶えない波動で刻々と周囲に迫って来る。こんななかでは思考することさえできない。

 前の文で提示した「闇!」という主軸に対する考え方が語られている。

何が在るかわからないところへ、どうして踏み込んでゆくことができよう。

 この文の存在によって「闇の中を走る」ことに関する段落と「闇に対する考え方」の書かれたこの段落が合流する。二つの筋を一つにまとめるという接続関係であり、非常に重要な一文である。ただし、完全には一つにまとまってはいない(後述)。

勿論われわれは摺足でもして進むほかはないだろう。しかしそれは苦渋や不安や恐怖の感情で一ぱいになった一歩だ。

 普通の人ならどのように闇の中で進むのかが書かれている。ここで、行為の主体が「われわれ(普通の人)」であることが明確になっている。また、「走る」という行為と対照的な「苦渋や不安や恐怖」を語ることにより、この次の文への足がかりとしている。

その一歩を敢然と踏み出すためには、われわれは悪魔を呼ばなければならないだろう。

 この「敢然と踏み出す」という部分で巧妙に動作主体が「われわれ」から「その強盗を演じるわれわれ」に切り替わっており、ここで完全に前の段落とこの段落とが合流する。また、「苦渋や不安や恐怖」を書いた前の文と「敢然」を書いたこの文とがきれいな対比構造にある。つまり、合流の接続関係と対比の接続関係を同時に書いている。この文の後半「悪魔を呼ぶ」についてはこの時点では意味不明であるが、文と文をここまできれいに繋げてきているという実績が、得体の知れない説得力を生み出している。

裸足で薊を踏んづける! その絶望への情熱がなくてはならないのである。

 前の文中の「悪魔」という単語を具体化し、前の段落「爽快な戦慄」が一体なんであったのかという感覚を言語化している。具体化と説明の役割を担う接続関係である。

 以上、接続関係の具体例である。ほかの接続関係の説明もできるとは思うが、ここではとにかく、「例文には接続関係が存在している」ということさえ感じてもらえれば充分である。



 上で引用した文章は前から後ろへときれいに繋がっていた。一見、これは当然のことのように思われるだろうが、実は案外難しい。前から後ろへの接続関係がない例として、以下の文を使おうと思う。悪文の見本である*2

 我々は加法性雑音の混入した音声信号から単一チャネルで雑音を除去する新しい手法を提案する。本手法は、入力と同じ話者の発話を前もって確保しておく必要がある。この前もって確保しておく音声サンプルは、入力信号を再構成するのに充分な音韻的多様性を必要とする。提案手法では、参照信号と呼ばれる発話の事例によって構成される小規模のデータベースが用いられる。(後略)

 一文目を簡単に書き下すと「この論文は音声から雑音をとり除く手法について書かれている」となる。ここまでは特に問題ない。

 問題はこの次の文である。二文目には手法の前提条件が書かれているのだが、前提条件が書かれているようには読めない。つまり、「前の文と次の文の関係が分からない」という状態になっており、要するに接続関係が曖昧である。

 三文目も同様に接続関係が曖昧である。

 四文目でようやく「その手法にはとあるデータベースが使われる」と書かれていて、ここだけが一文目と繋がっている。つまり、本当はこの文章では四文目を二文目に持ってくるべきだったのである(三文目以降はとりあえず考慮しない)。

 我々は加法性雑音の混入した音声信号から単一チャネルで雑音を除去する新しい手法を提案する。提案手法では、参照信号と呼ばれる発話の事例によって構成される小規模のデータベースが用いられる。

 例文として挙げた文章には、一つ一つの文をとれば明らかな文法誤りはないはずであるし*3、内容としても問題はないはずであるが、文の接続関係に致命的な問題があり、非常に分かりづらい文章となっている。



 さて、タイトルに戻ろう。「行間には何が存在しているのか」。答えは「接続関係」である。この「接続関係」がしっかりしている場合には、文章が分かりやすくなるし、説得力も出てくる。逆に、「接続関係」が曖昧な場合には、汚い文章だと見なされる。

 見方を変えると、文章における「接続関係」は、一つの文における「文法」だと見なすことができる。「てにをは」と「語順」がしっかりしていて初めてまともな文章になるように、文章も「(暗黙の)接続関係」と「文の順番」がしっかりしていて初めてまともなものになる。文の中で自立語と付属語の出現頻度が(多分)半々であるように、文章でも「(明示された)各々の文」と「(暗黙の)接続関係」は半々の重要さを持っていると思われる。

 文章というのは、書かれているもののみから成り立っているのではなく、むしろ「行間」が重要な意味を持っている。「行間」をないがしろにするという行為は、文章の半分をないがしろにするという行為に等しい。半分がないがしろにされている文章は当然のことながら美しくない。

*1:なお、私が「音声認識」というカテゴリ名をつけて話をするときには学術的な話であるが、「自然言語」の場合には単なる与太話である。真に受けないでほしい。

*2:私が英語で書いた論文を日本語に訳してみたら悪文になっていた。この場合、英語も悪文になっている。よく査読を通ったものである。

*3:この邦訳には多少の問題があるが、英文はチェックを受けている。