夢の中の書道の話。

2月23日から2月24日にかけての夢。

 昨晩(今朝)見た夢の中で夢の中の私が語っていたことが印象に残っているので、引用する。私が語っていたことのみでは何について語っているのかが分からなくなってしまうので、夢を引用する。

かなり広い和室に親戚一同が集まり、壁に掛けられたいくつかの「書」を鑑賞していた。私の知らない親戚もいた。「書」の出品者は不明である。

親戚の中の一人、私と同年代と思しき男が、一枚の「書」をとり出す。それはどうやら、その日欠席していた親戚の書いたものらしかった。私にはそれがなんという文字なのかが読めなかったが、おそろしく感動した。これぞ「書」だと思った。

しかしながら、その同年代の男と私以外は、その「書」に価値を見出さなかった。「読めない」というのがその理由だった。

私は語った。

「あなた方は『書』をどのように見ているんですか?『美』の対象として見ているんですか? 単なる『記号』の連なりとして見ているんですか?『記号』として見ているのなら、確かにこれは価値がない。『読めない』ですから。でも、この場合の『読めない』というのはあくまで対象を『記号』として捉えたときの価値基準ですよね。でも、あなた方にとって『読みやすければ』どんな『書』も価値が上がるんですか? それはものすごくつまらない『書』の価値判断だと思うのですが、そういう目で壁にかかっている『書』を見ていたんですか? 私は芸術というものを対象物から『記号的価値』をとり除いた『残り』で感じとっているんです。『記号』というのは伝達手段となり得ますが、その『記号』からはみ出てしまった部分こそが『美』なのではないですか? 伝わらないかもしれないそこに『美』を感じとるんじゃないですか? 何が書かれているかという『記号的価値』がない『読めない』『書』は価値がないんですか? だとしたら、活字を見て素晴らしい『書』だと感嘆すれば済む話じゃないですか?」

 我ながら長科白である。とはいえ、夢の中の私の科白を聞いて、私はなるほどと思った。芸術的対象から記号的側面をとり除いた残りが美なのかもしれない。モノから記号をとり去ったときに、ようやくそれ本来の造形が見えてくるのではないか。

大衆小説と純文学。

 こんな夢を見た一つの要因は、私が長い間、大衆小説と純文学との差異について悩んでいたからだろうと思う。

「面白い小説を教えて」と言われたときに同時に大概「それってどんな話?」と訊かれる。大衆小説は、あらすじを話せば大抵面白いと喜んでもらえる。設定だけで喜んでもらえる場合もある。一方で純文学は、あらすじを話しても設定を話しても決して喜んではもらえず、「で?」と言われてしまう。相手が「小説というのはあらすじや設定を聞けば大抵面白いかつまらないかが分かる」と思いこんでしまっているから事態は余計にややこしい。純文学の面白さとあらすじはあまり関係がないので、私の説明は最終的に徒労に終わる。「純文学はあらすじじゃないんだよ」と言おうものなら、「ではほかに一体なんなのか」と訊かれてしまうのだが、これまで私は答えることができなかった。「雰囲気とか?」と半疑問形で曖昧に答えるしかなかった。

 この夢の中の科白は、ある程度、私なりの純文学の面白さの在処の答えになっていると思う。あらすじや設定およびキャラクターというのは、小説の中の特に記号的側面が強い部分だ。その記号的側面が面白さの大半を担っているのが大衆小説なのだと思う。そして、面白さの大半が記号であるので、面白さの伝達が可能である。一方、純文学の面白さは小説の中の特に記号的側面が弱い部分にあるのだと思う。だから、面白さが記号化できず、伝達することもできない。

 小説は記号をとり去るのが難しい。基本的に、記号のみを並べて完成させなければならない様式になっているからだ。だから、記号をとり除く作業は読者に任されている。そして、読者が記号的側面を捨てたときにようやくその小説の姿が見えてくるのだと思う。

三倉佳奈のエッセイと太田光

 2月23日に、マナカナこと三倉茉奈三倉佳奈の姉妹ユニットの写真集兼エッセイ集が発売され、それを購入したこともこの夢を見た大きな要因の一つだと思う。

 三倉佳奈のエッセイからは、自分と『マナカナ』との距離についてのとらえどころのなさが感じとれる。三行だけ引用する。

「個」は、今一番難しいテーマかもしれない。
私は三倉佳奈っていう一人の人間なのに、いつも二人でいるから、
茉奈佳奈ってセットが基本として考えてしまって。

 彼女らは、『ふたりっ子』でデビューしてからずっと『マナカナ』という奇妙な記号を背負ってきた。ほかの多くの芸能人たちにとって「キャラ」という概念は、自分を演出するための手段でしかなく、芸能人としての生命を考えなければいつでもその「キャラ」をやめることができる。それに対し、彼女らは二人が同じ空間にいるときは常に『マナカナ』であり、『マナカナ』をやめることができない。非常に特異な「キャラ」であり、「記号」である。

 そんな記号を背負ってきた三倉佳奈は、おそらく人一倍、記号という概念に鋭敏なのではないかという気がする。エッセイを読んでいてそう感じた。『マナカナ』という記号は一体どのようなもので、三倉佳奈から『マナカナ』という記号をとったら残りは何になるのか。風の噂によれば、彼女らのうち片方の卒論のタイトルに「キャラ」という名詞が入っているらしい。それをどちらが書いたのかは分からないが、彼女らのある種のトラウマなのではないかと思う。

 似たようなことを、思えば、太田光は『トリックスターから、空へ』の前書きに書いていた。自分は芸人とか評論家とかそういったカテゴリにはまるのが嫌いだ、といったことである。太田光も自分に付随する記号を疎ましく感じているようである。政治について語り、本について語り、学問について語る太田光は常に「何者なのか?」という世間からの視線にさらされてきた。何者なのかという宣言の必要性について、太田は常に考え続けさせられていることだろう。

 もし、『マナカナ』の三倉佳奈と『爆笑問題』の太田光が、一対一で紙上ででも番組ででもトークをしたら面白い話が聞けるのではないかと思う。

「アッハ」と科学。

 科学とはどのようなものであるかということに対し、私は「おぞましいものである」と答えてきた。江戸時代の人間が自動車を見たら「危険だ」と感じるだろうし、縄文時代の人間に脳外科手術を見せたら「怖い」と感じることと思う。そして、初めて地球は丸いということを知った子供たちは、一度は「反対側に行ったら落ちる」と思ったのではないだろうか。最新の科学は常に昔の人間が聞いたら耳を塞ぎたくなるようなことを平気でおこなっている。

 また、科学について「観察と計測が本質である」とも語ってきた。長さを測ったり数量を数えたりすることから数学が始まり、空を見上げることから天文学が始まった。電流を計測するために、アンペア、ボルトなど様々な単位が生み出され、健康状態を調べるために血圧の測定法が生み出された。

 二つをまとめると、「おぞましい計測が科学である」ということになる。先日見たニュースでは、どこかの教授が「アッハ」という笑いの単位を作って喜んでいた。最初は私もくだらないと思ったのだが、次第に「アッハ」こそが「おぞましい計測」なのではないかと思えてきた。つまり、「アッハ」は科学の最先端であると私は捉えた。単位など作れそうにないところに単位を作るというのは、紛れもなく「おぞましい計測」である。

 言い換えれば、「おぞましい計測」というのは記号化されていないものを記号化する作業である。そのためには、記号化されていないものをまずは見つけ出さなければならない。つまり、『美』を見つけるのが科学の第一歩なのではないかと思う。科学者は同時に芸術家である。

はじめまして三倉茉奈です。はじめまして三倉佳奈です。

はじめまして三倉茉奈です。はじめまして三倉佳奈です。

トリックスターから、空へ

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