なぜなら科学だから。

 先日見た「爆笑問題のニッポンの教養」の感想を書く。2008年3月25日のこの特番の中で、太田は「金星は(金星という星は)生きているかもしれない」という発言をした。もちろん、太田もこれが常識的ではないことくらい分かっている。もしもそういう発言をしたとして、科学者はどう受け止めることになるのかということを聞くための発言である。

 この発言に対する京都大学の先生方の反応はとりあえず置いておこう。数年前の私がこの発言を聞いたら、「証拠を見せろ」と言ったことと思う。「その発言は科学的ではない」という趣旨のことを長々と語ったかもしれない。今の私は、この発言を聞くと悩む。科学的な考え方ではないことは確かだが、科学的でない発言は切って捨てるべきなのか、と悩む。

 科学というのは、それまでの体系の再構成だと思っている。それまでの理論のどうにも収まりが悪く見える部分を分解して合成し直すのが、いわゆる学術的な研究作業なのだろうと思う。逆に言えば、それまでの理論を全く無視して何かしらの説を唱えても、学術的な研究とは見なされない。ここがおそらく太田にとって納得のいかないところなのだろう。太田のこの主張では、金星が生きているということがそれまでの体系の中でどういう位置づけにあるのかということが説明されておらず、そんな主張では学術社会から無視される。そして太田は、科学にはそれくらいの自由さしかない、と暗に主張している(明に主張していたかもしれない)。

 科学はそういう意味で狭量であると思う。そして、その狭量さがまた科学なのだろうと思う。何もかもを受け入れていたら、科学にはなり得ないからである。

 太田の「科学はこういう金星のような主張を受け入れることができるのか」という疑問に答えるのはとても簡単だ。「できない」である。なぜなら、それが科学だからだ。科学は慎重であることにより、自らを守ってきたのである。太田に対しては、科学の慎重さというのはむしろ誇るべきことだと主張してしまった方が分かりやすかったのではないかと思う。「金星」の主張を簡単に受け入れてしまったら、科学は科学ではなくなってしまう。そういった種類の主張は、適切にそれまでの研究の流れが汲まれていることが確認されてから、はじめて受け入れられるべきものである。科学は、新しい主張を受け入れることに対して慎重になることにより、永く受け継がれてきたのである。

 太田は科学に過剰な期待をしていたのだろうと思う。ときに科学の社会は太田が言っていたような犠牲となる研究者を出すこともあるけれど、やはり慎重であるべきなのだろうと思う。慎重であることが嫌な人は、自ずと科学の社会からは離れていくだろう。

 ただし、困ったことに、私は太田の科学的ではないトンデモ言説が好きなのだ。

 (この文章は25日の夜に書いたものである。)