天才という言葉からの解放。

 天才というのはかなり厄介な単語である。そこから想起される人間像があやふやなのだ。

 引用元のエントリには、小学生のときに天才と宣告されて、それゆえに苦しんだという独白が綴られている。このエントリの最後の方に、次のような文が出てくる。

だから僕は、残念ながら自分は天才としては偽物だったけれども、天才を最も理解した凡人の経営者になろうと思った。

長文日記

 この人にとって、天才の反対語は凡人なのだろう。人によって天才の反対語は異なると思うが、とにかくこの人にとっては凡人なのである。凡人というのは「普通の人」という意味であり、この人にとっての天才というのは(語義とは異なるが)「普通でない人」だったのだろうと思う。「特別な人」と言い換えてもいいが、「特別」を辞書で引くと「普通一般とは違うこと」と出てくる。このあたりにこの人の苦しんだ原因がある。

 普通と違うことを求められて普通と違うところを目指すというのは、とても難しい。なぜなら、目指すべき方向性がないからだ。普通というのは「平均」である。そこからどういった方向に進もうと「普通でない特別な」人間になれる。そして、選択肢が多すぎるがゆえに、道に迷う。もしも天才の反対語を「勉強ができない人」と定義していたならば、もう少し話は簡単になっていたはずであり、とにかく勉強を頑張れば天才であり続けることができていたはずだ。ことを難しくしていたのは、天才の反対を凡人にしてしまっていたからだろうと思う。目指すべき人間像がなかったのだ。

 この状況から抜け出る手っ取り早い方法は、目指すべき方向性を作ってしまうことだ。方向性を作る簡単な方法は、不得意なものをやめてみることである。途端に均衡が崩れて方向性が生まれる。

 引用した文には「天才を最も理解した凡人の経営者」とある。この人がどういった方法でそこから抜けだしたのかは分からないが、もうすでにこの人は方向性を確立している。きっと「天才を最も理解した『変人』の経営者」になるんじゃないかと思う。変人というのは変わった人という意味であり、ちょっとそこらへんにはいない人、というくらいの意味だ。私なりの「天才」の言い換えでもある。天才とは違って、「何かが欠けている」というイメージもある。方向性のある変人は強い。idコールはしないが、404 blogが見つかりませんの人がその好例だと思う。

 ところで、この人、何年先輩なのかは分からないけど、私と同じ大学に通っていたらしい(三年先輩?)。そして、プロフィールを見ると、「なんだ、やっぱ天才じゃん」と思ってしまう。