私が最初に聞きとった中国語。

 本日の日記は音声からの単語獲得の話である。音声言語処理と脳科学自然言語処理のあたりにまたがる話題ではあるが、この日記の内容はさほど学術的なものではない。

 修士の学生の頃、隣の席の同級生は中国人の女性だった。ただし年齢は少々離れている。彼女はしばしば研究室に中国人留学生の友人をつれてきてお喋りをしていた。私もたまに中国語の真似をして彼女たちを笑わせたりしていた。中国語を学んだことはなかったが、私の真似する中国語の発音は悪くないようだった。ただし、単語は全く分からなかった。単なる音まねにも飽きてきて、今度は何か意味のあることを言いたいと思い、彼女たちの会話を注意深く聞き、「メイヨー」という言葉が何度も出てくることに気がついた。声調も聞きとって私は「メイヨー」と発音してみた。彼女たちは顔を見合わせた。通じなかったようだった。私は気をとり直して、「さっきから、『メイヨー』って言葉が何回も出てきているけど何?」と日本語で訊いてみた。彼女たちは再度顔を見合わせ、「そんなこと私たち言っていたっけ?」と言っていた。その後も彼女たちの会話を聞いていたのだが、彼女たちは確かに「メイヨー」と言っていた。

 その数年後の先日、それまでなぜか勉強していなかった中国語の入門書を手にとって斜め読みをしていた(音韻部分と文字の部分はどの言語の入門書もわりときちんと読むのだが、文法にはさほど興味がないので斜め読みになる)。そして、数年越しの謎は解けた。「メイヨー」は確かに存在した。「没有」と書いて「持っていません」といった意味になるようだった。それ単体では意味があるのかないのか分からない表現のようだった。道理で彼女たちの反応も悪かったはずである。

 何度も繰り返し出てくる表現ならば何か意味ありげな言葉になっているだろうと思っていたのが、どうやら大きな勘違いだったらしい。思えば、日本語でも、何度も出てくる言葉というのは「だよ」とか「から」とかそういうなんとも説明しづらい言葉である。区切り方を間違えると「しなきゃね」の「きゃね」を憶えてしまう可能性すらある。日本語の音声を録音したテープをずっと聞きつづけていても、そんな言葉しか憶えられないことだろう。

 私が「没有」を最初に憶えてしまったことについて、繰り返し出てくる音を憶えるという方策が悪かったと解釈すべきなのか、意味の分かりやすい単語をこれらの情報から憶えるのは原理的に無理なのだと解釈すべきなのか、それとも逆に「没有」から憶えるのが実は正解だと解釈すべきなのかということは分からない。もし、これらの情報から意味の分かりやすい単語を憶えるのが原理的に無理なのだとしたら、単語の獲得にはパラ言語的な情報(声の表情や視覚・触覚など)が必要だということになるのかもしれない。音声からの単語獲得の研究をしている人たちはどう考えているのだろう。