二次元テレビと穴。

 三十年ほど前、我が家には一瞬だけ白黒テレビがあった。私に物心がつく前のことなのであまりよく憶えてはいない。ほどなくしてカラーテレビに買い換えられ、それ以降我が家にはカラーテレビがあるのだが、そういえばなぜテレビには視覚的にリアリティがあるのだろうか。

 我々人類は一般的な見解としては三次元の空間に生きている。物理学の世界には理解しがたい次元がいろいろとあるようだが、一般的には三次元である。我々は三次元空間の街を歩き、三次元空間の人々と会話をする。にもかかわらず、テレビは二次元である。二次元テレビには充分なリアリティがある。コメディの世界に「昔テレビの中には小人が入っていると思われていた」という定番の笑い話があるほどにはリアリティがある。液晶ではなくブラウン管だったので小人が入る余地があったといえばあった。

 なぜ一つ次元の低い映像に我々はリアリティを感じるのか。いろいろと仮説は考えられるが、もしかしたら我々は普段三次元空間にいるときも二次元の映像としか認識していないんじゃないかなと思った。奥行きの認識もできるものの、奥行きに関してはかなり鈍感なのではなかろうか。

 ということを書こうとしてから半年くらい経ってしまった。そうしたら三次元のゲーム機が出てきたりしてやっぱり書くのをやめようかと思ったりもしたが、とあるきっかけがあって書くことにした。

 この奥行きの話は、以前ここに書いた穴の話に関連してくる。「穴という概念は不思議だ」という話である。穴には様々な形があるのに全て穴と表現されるのである。穴には典型例が見つからないにもかかわらず穴という概念が存在するのである。「穴と境界」という哲学の本まで出ているほどである。ドーナッツのように突き抜けている穴もあれば、アリの巣のように突き抜けていない穴もある。どちらも穴である。なぜ様々な形状のあの空間が全て穴と呼ばれているのか。

 そういう疑問を抱えつつ、「院展」という日本画の絵画展を見に出かけたところ見事なトンネルの絵があった。ここにも穴があったかと思って嬉しくなり、ちょうどその絵の絵葉書が売られていたので買った。松本高明さんの「水路」という絵である。今もその絵葉書を壁に飾っている。

 この絵を見ていて、そういえば穴というのはイラストとして書こうとするとどうしても円に近くなるということに思い至った。穴というのは本質的には円なんじゃないかと思った。穴の本質は三次元形状にあるのではなく、二次元の断面図にあるのではないかと思った。断面図というか、二次元の外見である。

 そうは思っても、三次元のものを二次元に圧縮してしまっていいものかどうか悩んだ。悩みつつ川本真琴さんのDVDを見ていてそのDVDが二次元映像であることに気づき、人間というのは奥行きに鈍感なのではないかと思ったのである。奥行きに鈍感であるのなら穴の典型例を円だと捉えても許される気がする。穴は多様なのではなく、断面は円なのだ。

 なんら検証はしていない話ではあるが、もしも奥行きに鈍感であることが正常であるとしたら、私が飛んできたボールをキャッチすることが苦手であることに理屈をつけることができるので嬉しい。あと、院展で同い年の従兄が外務大臣賞を受賞したので記念にこの話を書いた。