文系の学問はなぜ必要なのか。

 別に学問である必要はなく、要するに必要なのは文化なのであるが、その文化がなぜ必要なのかを書く。なぜ書くのかといえば、理系の学生として「文系の勉強ってなんの役に立つんですか?」という質問に攻撃されて文系の学問が社会的に衰退していきつつある現状に危機感を覚えているからである。

 なお、「何の役に立つのか」という質問に先に答えるとするなら、「人間を人間らしくするために役に立つ」となる。

 まず、文系の学問を語る前に、科学について語る。科学というのは一言でいってしまえば、人間から動物の部分をとり除いていく学問である。人間が狩猟採集をやめて農耕民族になったとき、「農業」という学問が始まって人間は狩猟採集活動をやめた。薬学は、人間の自然治癒能力の一部を代替している。文字の発明は人間の記憶能力を代替している。電卓は計算能力を代替している。車は走るという行為の代替である。

 ただし、今のところ、科学はまだ人間の全てをとり除いてはいない。その代替されずに残っている部分を私は真の人間らしさと呼んでいる。心理活動は人間らしさであるし、芸術活動も人間らしさである。宗教は人間らしさであるし、戦争をする動機も人間らしさだと思っている。そして、これらを担っているのが文系の学問である。

 さて、もう少し科学の話をする。縄文時代の人間が今の科学を見たらどう思うだろうか。また、江戸時代の人間が見たらどう思うだろうか。おそらく、外科手術を見せたらおぞましいと感じるだろうし、飛行機を見せたら怖いと思うことだろう。科学というのは、過去の人間たちが「信じられない、そんな世界はグロテスクだ」と感じることを平気でやってのけている。

 そして、科学の未来を考える。おそらく未来の科学は今の人間が「信じられない、おぞましい」と感じることを平気でやってのけているはずである。それは何か。さきほど「科学は人間から動物の部分をとり除いている」と書いた。もっと簡単にいえば、科学は文系の分野を喰っている*1。何百年後のことになるかは分からないが、心理・芸術・宗教・戦争も、科学に喰われることになることだろう。

 そのとき人間は一体何をしているのか。それを創り出すのが文系の学問である。理系が人間を浸食していく学問だとするなら、文系は人間の可能性を創造していく学問である。文系の学問が発達しなければ、人間は存在意義をなくすことだろう。

 大袈裟な言い方をするならば、文系の学問がなくなると世の中から人間が消えるのである。

*1:現に心理学は脳の研究に、言語学は計算言語学に、それぞれ喰われようとしている。実現はまだ先の話ではあるが。