馬鹿より専門馬鹿の方がいい。

 教育について語る人は多くいる。学力の低下について語る人も多くいる。そして、学力の低下について語る人に対して、学力の定義について問う人も多くいる。私も学力の定義について問いたくなる人間の一人である。

 まず「学力低下」していると嘆く人は「学力が向上」することを願っているはずである。では、もし学力が理想的な状況まで向上したとしたら、具体的に、そのとき子供たちが手に入れている学力とはどのようなものだろうか。学力低下について議論をしたいのならば、ゴール地点をどこにするかというところから話を始めなければならないはずである。それが、学力の定義を問うということである。

 さて先日、「卒業研究の代行を頼むメールが来た」という話*1をこのブログに書いた。その記事でgoogleができてから一人の知識は全員のものとなり、一人の能力は全員の能力になった(なりつつある)ということを書いた。集合知である。おそらくそれが時代の流れである。

 だとすれば、これから先の時代で必要な能力というのは、専門馬鹿的な能力ではないかと思う。ただ一つそのことに対しては誰にも負けないほどの能力を持つ人が、有能な人と見なされるようになるはずである。なんでもそつなくこなす平均的な能力を持つ人は、逆に情報の発信ができなくなるはずである。

 だから、私が「学力のゴール」を決めるとすれば、「専門馬鹿」ということになる。世界史未履修も歓迎する。それだけ数学や物理に時間を注いでいてくれれば、さぞや理系科目に関しては有能であることだろう。そもそも大学以降の専門分野がものすごい勢いで細分化され、発展していっている時代である。高校時代から視野を狭めていかなければもはや追いつけないだろう。

 ただし、本当に専門だけしか分からない人ばかりになると技術の横のつながりがなくなるので、「二つの専門分野が分かる馬鹿」が望ましい。*2

*1:http://d.hatena.ne.jp/tihara/20060921

*2:というか、このブログを書き始めてから、私の考え方もかなり変わってきている。