数学の授業では数学を教えていない。

 話の枕として、最近本当にあったことを語る。

 先日、とある縁のある研究室にふらっと遊びに行った。私は三十分くらい雑談をして帰るつもりだったのだが、その時期は卒業発表の時期で、その日がちょうど研究室内のリハーサルだったらしく、暇だったら見ていかないかと先生に言われた。合計六人の学部生たちのプレゼンテーションを見て、質疑応答の練習などをした。私も質問をしたし、ほかの学部生や修士の学生たちも質問をしていた。私が見るかぎり、プレゼンテーションの能力も質疑応答の能力も我々の時代とほとんど変わりはなかったが、一つだけ著しく劣っていた能力があった。数式やアルゴリズムの読解力である。

 私がDCTとDFT(どちらも彼らの分野ではよく出てくるはずの用語)の差の質問をしようとすると先生から「いや、その話は難しすぎるからちょっとやめて」とストップがかかった(確かに数学が苦手な人はいるかもしれないが、難しすぎるとは思えない)。また、音の高さと音色の関係について信号処理的に話し始めたら、やはり先生から「彼らには分からないから信号処理の話はダメ」と言われた。その先生は私が学部の頃は「学生なら数式の読み書きができて当然」といった考えを持っていた人であったが、どうやら教育方針を変えたようだった。もっと言ってしまえば、教育方針を変えざるを得なかったのではないかと思う。

 ここからが本日の日記の本論になる。

 なぜ、数式を学生に扱わせることを諦めざるを得なかったのか。それは多分、どれほど教えても学生が数式を扱うことができるようにはならなかったからであろう。学生たちには数式の読み書きのセンスがなかったのである。

 では、数式を扱うというのはどういうことなのか。それを私の直感で四つのスキルに分けようと思う。

  1. 記号の操作:x+x=2xなどが計算できる。
  2. 記号を具体的なイメージに変換すること:x(y-1)=12という式を見てその物理的意味が分かる。
  3. 具体的なイメージを記号に変換すること:太郎は12km/hで自転車をこいだなどの文章を数式に変換できる。
  4. イメージの操作:速い自転車が遅い自転車を追い抜く瞬間を想像することができる。

 私の経験では、多くの学生は4はできる。これは小学生でもできることである。

 そして、1もそれなりにできる。計算問題は受験勉強などでたくさん解かされる。

 3のできる学生も多い。文章題を解く練習もかなりさせられる。ただし、できない学生もわりといる。

 問題は2の「数式→イメージ」の変換である。これはほとんどの教育機関で扱われていない。そのせいか、できない学生が非常に多い。大学受験まではこれができなくてもなんとかなるのであるが、研究室ではこれができないと「数式が扱えない」という事態に陥る。

 数式を扱うというのは1のみだと思われがちだが、本当のところは2と3の「数式とイメージとの往復」が重要である。それにより(工学では)現実の問題を解くための数式を作ることができるようになるのである。

 では、2と3はどのように教えればいいのかということであるが、これは国語の授業のように教えるしかないのではないかと思われる。国語の授業というのは上の四項目に当てはめれば2と3を主として教える科目である。しばしば「曖昧な国語より答えのはっきりした数学の方が好き」という人がおり、今のところ数学はそのとおりになってしまっているが、「曖昧な数学」と呼ばれるであろう「数式とイメージとの往復」を主とした数学の授業もすべきであると思う。そうして数学のセンスを養う必要がある。