無責任な妄想の必要性。
先日、数学の授業では肝心なことを教えていないのではないか*1ということを書いたが、今回はその日の出来事の続きである(話としては別物である)。
前回、別の研究室の後輩たちの卒業発表のプレゼンテーションを見ていたということを書いた。私は彼らの研究に関しては部外者だったので、全くの初見でプレゼンを聴くこととなった。そして、いくつかの質問をした。今日はその中の一人とのやりとりについて語る。
彼は丁寧な事前調査に基づいて従来用いられてきた手法を紹介し、それではうまくいかないので全く逆の方法*2を用いてみたという発表をした。発表としては型どおりでありなんら問題はない。ただ、結論として、それでうまくいったのかどうかが分からなかったので、質問をしてみた。
私「直感的には従来の手法の方がうまくいきそうなんだけど、それがうまくいかなかった(としている)のはなぜ?」
相手「考えたことがなかったです」
曰く、結果的にうまくいっていなかったから、とのことだった。予想どおりの応答だった。私はそこで質問を終えてしまったのだが、もしもう少し食い下がれる雰囲気だったならこんなふうに質問をしていたかもしれない。
「無責任な妄想でいいから、適当に理由を言ってみて」
本当は無責任な妄想ではいけないし適当な理由は理由にならないのだが、そのあたりの枷を外しておかないと彼は何も考えられなくなってしまうだろう。そもそも、研究は常に「無責任な妄想」から始まる。一般にこの無責任な妄想を「仮説」と呼ぶ。そして、その無責任な妄想に確証を与えていくのが研究である。研究は、無責任な妄想なしには始まらないのである。
比喩的にいえば、「無責任な妄想を語ること」は高いところから飛び降りることに相当する。そして、見事に着地できるか骨折するかが研究の成果が出るかどうかの分かれ道となる。研究の成果が出ないパターンにはいくつかあるが、その中に「そもそも飛び降りていない」場合と「あまりにも飛び降りる位置が低すぎる」場合と「あまりにも飛び降りる位置が高すぎる」場合の三通りが代表例として存在する。今、学内の学生を見回すと、そもそも飛び降りていない人がとても多い。だから私は、無責任な妄想を語れと言いたい。私もまだまだ妄想を語る。全ては仮説から始まる。
話は飛ぶが、東京大学の総長が「東大のこと、教えます」という本を書いた。私にはこの本が総長自ら飛び降りる手本を見せているように感じられた。かなり無茶な本だという印象である。ちなみに、本の中ほどに出身高校名が出てくるが、どうやら私の先輩にあたるらしい。どうやら私の出身校はこの頃から校風があまり変わっていないようである。入学は小宮山総長の時代の方が格段に難しいのだが。
東大のこと、教えます―総長自ら語る!教育、経営、日本の未来…「課題解決一問一答」
- 作者: 小宮山宏
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*1:http://d.hatena.ne.jp/tihara/20070210#p1
*2:簡単にいえば分子と分母を入れ替えているので本当に全く逆である