学問の閉鎖性と「ポップリサーチ」。

 2007年9月28日のことである。私は、「爆笑問題のニッポンの教養」というテレビ番組の特番を視聴し、「NLP若手の会第二回シンポジウム」という学会に出席した。時間的順序はテレビ番組の方があとなのだが、先にテレビ番組について語る。

 「爆笑問題のニッポンの教養」というのは、毎回、様々な大学教員たちの研究室を爆笑問題の二人が訪問し、専門的なことについていろいろと喋るという番組である。この番組を私は毎回楽しみに見ているし、おそらくこれからも見続けるだろう。その日の特番では、慶応大学の研究者たち(塾長含む)9名と他の大学の研究者3名と爆笑問題の2名によるトークが放映されていた。

 私が気になったのは、塾長の語りだった。すでに記憶が曖昧になっているのだが、学問は面白いものであるということを語っていたように思う。それを二つの段階に分けて語っていたと思うのだが、細かくは憶えていない。ただ、学問の面白さに疑いを抱いていないようだったのが気にかかった。塾長は、太田光に「疑うことは大事です」と何度も言っておきながら、学問の面白さについては疑っていないようだった。

 もしかしたら、慶応ではそうではないのかもしれないが、三流国立大学である私の大学では、後輩たちがとても面倒くさそうに卒業研究や修士の研究にあたっている。少なくとも、彼らは学問を面白いとは感じていないはずである。「なぜか妙に手間のかかる単位」と捉えているのではないかと思う。私の場合は、学部の四年目を「問題の制作と解決だけに時間を費やせる幸せな年」として過ごしたが、そう捉えていた私は少数派だろう。そして、爆笑問題の番組に出ていた研究者たちも少数派だと思う。

 そんな少数の人たちが、無根拠に学問を面白いものと決めつけている。そして、研究室では学生たちに「面白いのだからもっと頑張れ」と苦行を強いている。その上、頑張れない学生に対し、なぜ頑張れないのだろうと首をひねりつつもそこで思考を停止させている。そんな研究者たちは学問が面白くない可能性に思い至らない。なぜなら、学問のつまらなさに気づきづらい環境にいつもいるからである。

 研究室というのは研究者にとってとても居心地がよい。なぜなら、どれだけ研究の話をしても怒られないからである。それ以外の場所は非常に喋りづらい。例えば、生物学者が家庭で食事中に研究の話をしようとすると、「食べ物がまずくなるからやめて」と言われるだろうし、哲学者が専門外の奥さんに研究の話をしたら、「あんた、暇ね」と言われることだろう。研究者が研究の話をすることができるのは基本的に研究室のみである。研究室以外の場において、学問はつまらないものと認知される。

 ところが、研究者はいつも研究室にいるので、学問がつまらないなどとは疑わない。学生も、研究室が「研究室」という名前であるので、そこに配属されたら研究をせざるを得ない。研究室長は、そこで、なぜ学生が面白くなさそうに研究をしているのかをシンプルに考える必要があり、シンプルに考えれば学問のつまらなさに気づくはずであるが、そう書いている私も9月28日にテレビで慶応の塾長の語りを聞くまで気づかなかった。

 その9月28日を過ぎても私自身は研究をすることが楽しいのだが、周囲のものの見方は変わった。私はそれまで、なぜ周りの人たちは学問の面白さに気づかないのだろう、と思っていたのだが、その日を過ぎてからは、なぜ学部四年生になった学部生には卒業研究をさせなければならないのか、と考えるようになった。

 そんな結論のない話を中途半端に述べたまま、二つ目の話をする。学会の話である。9月28日、私は午前十時からの学会に二十分くらい遅れて参加をした。NLP若手の会第二回シンポジウムという会合である。NLPというのは自然言語処理の略語で、私の専門分野とは多少異なる(私は音声信号処理が専門である)。若手の会というのは文字通りの意味であり、発表者は三十代前後の若手に限られていた。午前中には三件のプレゼンテーションがあり、午後はポスターセッションというブース形式の発表があった。私はこのポスターセッションに発表者として酷くレベルの低い(自分で言うのもなんだが見方によってはトンデモになってしまいそうな)研究テーマをひっさげて参加した。

 問題は、私が参加した午後のポスターセッションではなく、午前のプレゼンテーションである。簡単に言ってしまえば、内輪受けに見えてしまったのである。運営者の方々には大変申し訳ないことを書いているが、専門外の私から見れば、やはり内輪受けにしか見えなかった。

 内輪受けに見えた印象的なシーンがある。研究のためのライブラリの開発に関するプレゼンテーションで、「これをmainに書いてもらえれば使えます」という説明があった。それに対し、要望として「もっと簡単に使えるようなツールにしてほしい」という声があがった。返答は的を射ないものだった。そして、その的を射ない返答で会場の若手研究者たちは満足しているようだった。要求者はmainが分からないからこそ(その会場には計算機言語を普段使わない研究者もいた)その要望をしたのだろうが、それに対してその返答に会場が満足すべきではないだろうと思えた(現に満足していない分野違いの研究者がいた)。

 また、その後、若手の会の運営課題の話になり、「そろそろ世代交代をしなければ」という運営側からの提案があった。けれど、私には世代交代をしたがっているようには見えなかった。いつまでも今の運営者が主導権を握ったままでいるのではないかと私には思えた(私にそう思えただけで、本当に世代交代の覚悟があるのならごめんなさい)。

 そういった内輪受けの雰囲気を感じたのであるが、内輪受けというのはどの学会にも共通する性質である。思い返せば、私がメインに発表している学会も、内輪受けである。それがただ、NLP若手の会第二回シンポジウムという専門外の学会だったから気づけただけのことである。

 なお、午後の自分の発表は私にとって非常に有意義だったので、運営者に感謝する。この午後のことは後日改めて学術的なことを含めて書こうと思う。

 とにかく9月28日に、私は二つの出来事から学問の閉鎖性を感じた。学問が閉鎖性を帯びてしまうのは、学問の宿命にも思える。その一方で、学問が閉鎖性を帯びていることに気持ち悪さも覚える。

 何か考えるとっかかりがほしかったので、実際に三人の後輩に「研究について難しいこと・嫌なこと」を訊いてみた。そのうち二人は、「時間がかかること」と言った。もう一人は「興味を持つこと」と言った。「興味を持つこと」と言った後輩に、「○○の分野なら君は興味を持ちそうだけど」と尋ねてみると「その分野ならばりばりに研究しているかもしれない」と答えた。ひとまず、非常に素直な返答をしてくれた三人に感謝する。

 まず、「時間がかかる」ということについて語る。実は私にとってこの答えは盲点だった。私は時間をかけることをあまり苦としない性格だからである。おそらく、多くの研究者は「時間がかかる」ということを当たり前のように受け止めているだろう。しかしながら、この「時間がかかる」という指摘は本質を突いているように思う。研究には時間がかかる。ただし、後輩たちが感じている「時間」と私が感じた「時間」はおそらく異なるだろう。後輩たちが感じている時間というのは、具体的な作業の多さの言い換えだろうと思う。なぜ、ほかの単位に比べて、卒業研究はこれほどまでに時間が拘束されるのだろうという意味での時間である。一方で私が感じた時間は、その分野の学会で発言ができるようになるまでの年単位の時間である。過去の文献が山ほどあり、知識をその分野で活動している人たちの水準に合わせるまでが大変なのである。その分野で活動している人たちの水準に合わせないと、「勉強して出なおしてこい」と言われることになる。

 また、「興味を持つこと」と答えた後輩は、無意識のうちにほかの専門分野に転向することの不可能性を感じている(修士の途中では不可能だ)。私も、専門分野の転向には時間がかかると感じている。ただし、転向しようとは思っている。

 どちらにしろ、研究をぱっと終わらせることができない、または、ぱっと始めることができないというところを「学問の性質」として捉えているようである。

 なぜ、ぱっと終わらせることができないのか。それは、終了判定のレベルが高いからである。例えば、現在の常識ではあり得ない話ではあるが、一週間頑張れば結果がどうであれ卒業させると言えば、頑張るのではないだろうか。鍵は「結果がどうであれ」という部分である。人間、成果が問われると「終わらないかもしれない」と感じることになる。

 ほとんどの研究室には、「終わらないかもしれないからやる気になれない」という学生への対処法が存在しない。それどころか、そういった学生をサボっているだけと見なす傾向にある。研究室というのはそういうところである。

 研究室に関していえば、なぜか限られたことしかできないところである。私の学科では、学部三年生が四年生にあがるときに研究室選びをし、その際に学内のホールで学科内の全教員と三年生と研究室の学生たちが立食形式の雑談をするのであるが、「こういう研究をしたい」という夢を持った三年生が必ず話しかけてくる。そういう学生は研究室にとって本当は歓迎したいところなのであるが、ほとんどが分野の異なる研究である。私の所属している研究室は人間の声が専門であり、要するに「音」なので音響一般の技術についての研究をしたいと言ってくる学生が多い。私はそんなときに相手の話を詳しく聞いた上で、「それは○○研究室が専門だね」と別の研究室を薦める。薦めたこと自体は間違いだと思っていないが、薦めざるを得ないことは残念だと思っている。研究室の教員も他分野に興味はあるが、他分野の研究は学術的な尺度からすると、浅いことしかできないのである。学術的な尺度しか持ち合わせていない大学の構造が哀しい。

 話を戻す。ぱっと始めることができないのは、何を目標とするかということを決めるのに時間がかかるからである。つまり、終了判定をどうするかということが決まっていないのである。

 結局、時間の問題というのは、終了判定の問題である。研究の典型例は、未知の問題を探し未知の問題を解くというものであり、この研究の方法論が覆らない限り、おそらく「研究には時間がかかる」。

 なんら解決法が見つからないまま、話は学問の気持ち悪さに戻る。研究室でも学会でも同じことであるが、知識がないことを悪徳とする傾向がある。言われることは同じであり「なぜそんなことも知らないんだ」である。学問のみならず、オタクの世界でもその傾向にあるようである。「必須」のアニメ群の知識がないと、オタクとして認められないという話を耳にしたことがある。

 なぜ、人はこれほどまでに無知に不寛容なのか。それはおそらく、知識なしには文化が発展しないからなのだろうとは思うが、それにしても不寛容すぎると思う。その分野の全ての知識を吸収することは不可能である。そして、この不寛容が常識となってしまうと、新しく入ってくる人がいなくなり、結果としてその分野は「伝統芸能」となってしまうことだろう。

 実際のところ、私の知らないところで、日本の学問はすでに伝統芸能化しているのかもしれない。そして、社会に出るための儀式として、学生たちは研究室で苦行をこなしているのかもしれない。

 私は純文学と称される若手作家の作品をときどき読むが、純文学も非常に入りづらい世界である。私は長嶋有が好きで、デビュー当時から読んでいるのであるが、この作風でベストセラーは書けないだろうなと思う。彼の作品の販売部数は、はてなブックマークのホットエントリの閲覧数よりも少ないのではないかと思う。

 話を研究に戻す。私は、ものすごく価値のありそうな研究が、学会で批判の嵐に晒されたところを目撃したことがある。2004年1月のことである。批判を受けていたのは既成概念を根底から覆す研究で(ただし完成度は高かった)、批判していたのは主に高い年齢層の人たちだった。そのときは、なぜ批判を受けるのかが分からなかったのだが、今にして思えばこういうことなのだろう。つまり、批判していた人たちは自分たちの功績が無駄になってしまうことに危機感を覚えたのである。もはや、新しい概念を学会で発表するのは難しい。

 研究を始めるのが難しく、終わらせるのも難しく、認められるのも難しい。もし、始めるのが簡単だとしたらそれは既存の問題設定をなぞっただけであり、終わらせるのが簡単だとしたらそれは既存の解法をなぞっただけであり、簡単に認められたとしたらそれはほとんど独創性のない研究である。なんだか、学問をするための研究室や学会が、学問に歯止めをかけている気がしてならない。

 ここで再び「研究に興味を持つのが難しい」という発言について考える。人は大抵の場合、本当に必要なものに対しては「興味がない」とは言わないものである。例えば、「好きな食べ物は?」という質問に対して「食べ物にあまり興味がない」と答えるのは周りを見回しても私だけであり、大抵は何かしら好きな食べ物を挙げるか、または逡巡する。「興味を持つのが難しい」と言い得る対象は大抵の場合、趣味である。学問を趣味の一種であると捉える人もいるということである。ある特定の一つの趣味を大学に進学した全員がおこなうというのは、なかなか見られない光景である。もし、入学者全員にヴァイオリンの練習が課せられたとしたら、かなり滑稽である。もしかしたら、入学者全員が卒業研究をするというのは、滑稽なことなのかもしれない。

 ところで、私は最近、趣味としてコンピュータ将棋を作っている。まだ始めたばかりで、駒を動かすことすらできないのであるが、いつかコンピュータ将棋の選手権に出たいと思っている。コンピュータ将棋に注目し始めたきっかけはbonanzaの活躍なのであるが、本当に始めようと思ったきっかけは「Java将棋のアルゴリズム」という本を見かけたからである。正確には、その本の帯の「世界チャンピオンに勝つプログラムを作るのはこの本を手にしたあなたかもしれない」という惹句が気に入ったからである。この惹句は大袈裟であるが、一つ確かなのは、挑戦権が広く確保されているということである。プログラムが組める人ならば挑戦してもいいですよ、とこの惹句は言っている。本文では、将棋の知識などなくてもいいのだ、ということまで書かれている。第一章が将棋のルール説明に費やされているほどである。

 コンピュータ将棋は、私が知っている中では最も門戸の広い工学系学問である。日曜大工気分で学問に参加できるのである。日曜大工気分で参加できる学問は、もっと多くてもいいのではないかと思う。自分の分野を振り返ると、日曜大工にはなりそうにないと思ってしまうのであるが、それはおそらく中にいる人の偏見である。学問がもし趣味の一種だとしたら、プロとアマチュアの両方がいてよいはずである。

 音楽にはクラシックからポップスまで様々な親しみやすさを持つジャンルがある。絵画にも抽象画からポップアートまで様々なジャンルがある。学問にも「ポップリサーチ」とでも呼ぶべき「入りやすく終わりやすい」ジャンルがあってもよいはずである。学問の大衆化に危機感を覚える人もいるかもしれないが、学問が伝統芸能になってしまうよりはよほど歓迎すべきことのはずである。

 つまらないかもしれない趣味を入学者全員に押しつけるのは健全ではない。趣味に対する知識が浅いといって非難するのはイデオロギーの押しつけである。単なる趣味に優越感を抱いて内輪で褒め合うのは不気味である。

 もしも、学問が本当に面白いものならば、それがどのようなものになるのかは分からないが、趣味としての「ポップリサーチ」があってもいいはずである。

 (9日までコメント欄などの普段使っていない機能を使おうと思います。)

 (9日追記:コメントは全くありませんでした。)

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