「大半の疑似科学は技術である」の続き。

 まずは謝罪から入ろう。先日書いた私のエントリ(2008-05-11 - IHARA Note)についてトラックバックを送ってくださった三名の方へ。私は全く誤読させるつもりはなかったのですが、私の文章があまりにも分かりづらく、逆方向への誤読をさせてしまったようです。申し訳ない。以下、どこが誤読なのかを語ろうと思う。

 最も分かりやすいのは、shibukenさんのこの文章だと思う。

それでも、技術畑の方の感覚を想像してみると、「水からの伝言」の主張内容を知れば知るほど「そりゃあ制御不能とかいう以前の問題だ」「いくらなんでも使いようがない」といったあたりは同意いただけるのではないでしょうか。

PSJ渋谷研究所X: 「使える/使えない」と科学、あるいは大半の疑似科学は本当に技術か

 同意するも何も、私は先日のエントリ内にこのように書いている。

一人の工学者としては、大抵の疑似科学を「使えない技術」と見なしている。

2008-05-11 - IHARA Note

 つまり、私は疑似科学を頭からばっさりと「使えない」と切って捨てている。そもそも、先日のエントリは疑似科学を擁護するものでもなければ、疑似科学批判を批判するものでもない。疑似科学への対処法を提案するためのエントリである。はっきりとは書かなかったが「疑似科学は技術的観点からも話にならない」という意図で書いた。疑似科学は科学的に批判をしようとするとおそろしく手間のかかる問題だが、技術的観点から批判をしようとすれば「使えない」の一言で済む問題だと思っている。シンプルに切り捨てた方が疑似科学主張者、および、疑似科学批判者の双方にとって幸せなことではないだろうか。それとも、疑似科学を科学的な観点から批判したいのだろうか。とにかく、私の立ち位置は疑似科学をばっさりと頭から切り捨てるというものである。

 さて、もう一つの大きな問題はここだと思う。

水伝は、上にも書いたように、言葉に応じて水が変化するというのを実験で確認した、と言って、それを道徳的な、「言葉遣い」の根拠にしている説です。それを、「単なる使えない技術」と表現するのが、どうしても掴めないです。使いやすく改良される、というのもね。全く具体的にイメージが出来ない。

説明出来る、使える: Interdisciplinary

 私は先日このように書いた。

水からの伝言」は今のままでは「単なる使えない技術」にすぎない。どう使えばいいのかが分からないからだ。もしそれが可能なら、使いやすく改良されることを願う。

2008-05-11 - IHARA Note

 「もしそれが可能なら、使いやすく改良されることを願う」とは書いたが、使いやすく改良することができるとは書いていない。また、使いやすく改良することができるとも思っていない。改良など無理だろうと思う。だから、そんなものは切って捨ててしまえばいい。使い方が分からないものは使えない。

 ここから先は細かい話になるが、丁寧に返答していこうと思う。

ただ、その技術がなんらかの責任を負うためには、その裏づけのようなものが(必要だ、必要じゃない、ではなく)ほしくならないのだろうか。

技術とニセ科学:Chromeplated Rat

 ほしくなる。ただし、「裏づけのようなもの」は少なくとも二種類ある(ほかにも裏付けの方法はあるだろうけど)。一つは、「○○回試行して○○回成功しました」に代表される実証実験である。もう一つは、それまでに蓄積された学説と矛盾しないという裏付けの方法である。ほしくなるのは、実証実験である。それまでの学説の支えはなくても構わない(もちろん学説に支えられていた方が頼もしい)。実証実験も統計学による支えではあるが、統計学が理解できていなくても結果だけ示されれば素人でも実効性の有無は分かる。

もちろん「使えればいい」と云うのは技術の大前提で、使えさえすればエンジニアではないぼくたちもその恩恵に浴することが可能になるわけなのだけれど(その意味でもちろん正しいとか間違っているとか云うような種類の話ではないのだけれど)、そこに留まる、と云うのはある程度一般的な感覚なのだろうか。

技術とニセ科学:Chromeplated Rat

 主張したいのは「使えればいい」という部分ではなく、「(改良しても)使えない技術は話にならない」という部分である。疑似科学は使えないので意味がない、ということが言いたい。「使えればいい」に関しては、エンジニア間で意見が分かれるところだろうが、「(改良しても)使えない技術は話にならない」というのは誰しもがそう思うところであると思う。

でも、なんとなく漠然と科学と技術は相互に支援しあっているものである、みたいに認識していたので、もう一度分離すべきなんじゃないかと云われるとこれもよく分からなくなる。

技術とニセ科学:Chromeplated Rat

 私も科学と技術の分離が簡単にできるとは思っていないし、はっきりと区別することは不可能だと思う。けれど、観点として「科学的観点」と「技術的観点」を区別することは必要になってきていると感じる。何か学説(らしきもの)を見るときに、「使える/使えない」で判断してもいいのかどうかと顧みることは重要だろう。

 ここまで、疑似科学を「使えないから切って捨てていい」と主張してきたが、では、(真っ当な)科学の研究がもし「使え」なかったら、切って捨てていいのだろうか? 私の答えは「よくない」である。近代科学に対して「使える/使えない」の判断をするべきではない。ここは私もうまく説明ができないところなのだけれど、科学を「使える/使えない」で論じてしまうと文明が衰退してしまうのではないかという気がしている。

 いわゆる「それおいしいの?」的な発想で科学に対して「使える/使えない」という基準を適用してしまうと、ほとんどの科学(特に人文科学)は「使えない」と(国や世間から)判断されてしまうのではないかと思う。そして、予算が削られてしまう。そういうことを防ぐために、「使える/使えない」の判断をすることに意味がない分野もあるということを主張しておくべきではないかと思う。

 また、近代科学において、学問体系における位置づけがはっきりしていない説は、科学と見なされない。体系づけられていない説は科学ではないということを主張しておいた方が疑似科学抑制のためには有効であるように思う。

 そういった意味で、科学的観点と技術的観点は分離しておいた方がいい。ただしこれは、科学的な研究対象と技術的な研究対象を分離するという意味ではない。例えば、はてなブックマークのコメントにもあったように、コンクリートという研究対象に対して、科学的観点と技術的観点の研究は両方ともあり得る。そして目指すべきところは、どちらの観点からも認められる説を唱えることだろう。そうであるとしても、観点を分離しておいた方が研究の進み具合は速くなることだろう。研究者の負担がそれだけ減るからである。

 それとも、科学者は世間や国からの「使えるの?」という攻撃に今よりも強くさらされたいのだろうか。

 なお、「科学と技術」をgoogleで検索すると私の場合はhttp://211.120.54.153/b_menu/shingi/kagaku/kondan21/document/doc03/doc36.htmこのページがトップに来る。

水伝は、周知の通り、「言葉に応じて水が変化する」というメカニズム(良い言葉は何故良いか、というメカニズム)を謳っている訳で、間違い無く、科学を主張したものですよね。科学的文脈で主張してはいけない、と言われても、そもそも科学的文脈に「進入」してきたものなのですから…。

説明出来る、使える: Interdisciplinary

 そこは対処法の見解に相違がある。科学的文脈に「進入」したと感じたとしても、科学的文脈に「進入」したと見なしたら事態がややこしくなるだけだ。ここは、技術的文脈に「進入」したと見なしてほしい。そうすれば、「使えない」の一言で切って捨てることができるので。

 対処法に関係のない部分の感覚的なところに関しては(わざと言葉を曖昧にしています)、相違はないが、相違がないということをわざと書いていない。

それ以外にもはてブのコメントで「工学や医学の人に、しばしば彼岸に旅立たれる方がおいでになるのは、そのせいなのか?」なんてメモっていました。

http://shibuken.seesaa.net/article/96758373.html

 id:kamezoさんですね。このコメントを読んだときには、私も大いに頷いた。それまで技術畑にいた人が急に科学的な研究をしようとすると疑似科学になるのだろうなあ、と。

このtiharaさんのエントリ、「どうやって使える/使えないを見極めるか」が入ってませんよね? 違いますか? 技術って、その見極めを抜きには成立しないですよね? そして、その点において技術と科学はクルマの両輪のような関係にないでしょうか?

PSJ渋谷研究所X: 「使える/使えない」と科学、あるいは大半の疑似科学は本当に技術か

 おそらく、両輪というのは技術の評価に統計学を使うことをいっているのだろうと思う。そういう意味では両輪である。そして、一輪車ではないところが重要なことである。技術的観点と科学的観点を分離しておく必要性については上述のとおりである。

ひょっとすると、「頭ごなしに『なんの可能性もない』みたいな切り捨て方をするのは、おかしいんじゃないか」といったお気持ちもおありだったのかもしれません。

PSJ渋谷研究所X: 「使える/使えない」と科学、あるいは大半の疑似科学は本当に技術か

 頭ごなしに「使えない」と切り捨てた方が手っ取り早いと考えている。

 これでだいたい回答は終えたかと思います。疑似科学については、技術的観点から手早く切り捨てるのが得策なのではないかと思っています。それとも、これまでと同様に、科学的観点から批判を続けたいのでしょうか。また、手早く切り捨てるためには、既存の科学が切り捨てられない方法も同時に考えておくべきでしょう。