芸術の企画書。

 意外と日本はまだ文化や芸術に対する保護の気持ちが強いのかもしれないと思ったのでそのことについて書く。

 先日、AVIRG(視聴覚情報研究会)という研究会に行ってきた。講演は二件であり、両方とも情報デザインによる市民芸術創出プラットフォームの構築というプロジェクトに関連するものだった。この講演の内容に関してはここでは詳しく書かない。私が書くまでもなくリンク先で長く説明されているし、どこまでが公式情報でどこからが非公式情報なのかも分からないからである。とりあえず、本日の日記を読むにあたり押さえておくべきことは、芸術に関するプロジェクトであるということと、理系・文系・芸術系の三者が絡んでいるということと、プロジェクトの中核となっている機関が「デザイン」の研究室であるということである。

 もう少し前置きを書く。この「デザイン」という言葉を私も未だに捉えきれていないのであるが、どうやらここでいうデザインというのは単なる意匠やアートのことではなく、人間の意図によって設計されるあらゆるものごとが対象となるようである。車やコンピュータインターフェースといった工学的なものから、人間と社会の関係性といった文化的なものまでが研究の射程内に入っているらしい。

 さて、本題である。研究会の最後に、文理融合の難しさについての話になったのであるが、このプロジェクトを統合しているデザインの先生が語るに、集まったそれぞれの研究者がこの共同作業以外に自分個人の仕事を持っていることこそが難しいところだそうである。それが端的に現れるのが工学系研究者であり、その共同作業の自分の担当する予定の部分が工学的な新規性に乏しいと研究作業の時間をとらせてもらえないようなのである。論文にならないようなことに余計な時間を費やすことができないということである。私も工学系の人間なので、そのあたりの事情は分かる。研究を始めるにあたり最初に検討するのはそれが最終的に論文になりそうかどうかである。デザインの先生が「工学的新規性」という言葉にショックを受けたと語っていたので、おそらくその先生の分野では研究計画に対する考え方が工学系よりは緩やかなのだろうと思われる。文系もそれぞれに研究計画に関する縛りを抱えてはいるだろうが、その先生は「工学的新規性」という縛りにショックを受けたということを強調していた。とにかく現代は、比較的自由に見える大学や研究機関ですら、企画が通らないと何もできない世の中である。

 その研究会のあと、十人で飲み会に行き(私は身体的な都合により酒もウーロン茶も飲めないのでオレンジジュースだったが)、二時間くらい喋った。その飲み会では別のかたちでこの「企画書」の話が出た。飲み会の参加者は多摩美術大学の人たちが多かったのであるが、その中の一人が言うには、アメリカでは大学の「アート」の部門が淘汰されていっているというのである。説明によれば、まず前提として美術系の分野は大きく「アート指向」と「デザイン指向」に分かれるようである。アートというのは我々日本人が思い浮かべるような一般的な絵画や彫刻などであり、私の個人的な解釈によれば結果の追究である。一方で、デザインというのは様々な対象の設計であり、私の解釈によれば手段の追究である。このうち、アートが淘汰されているということである。なぜなら、「こういうふうに人の役に立つ」という企画書や事後報告書が書けないからである。一方で、デザインの方は例えばヒューマンインタフェースなどの工学寄りの分野で「役に立つ」。ゆえに企画書や報告書を書くことができるので、かたちを変えてなんとか存続できているらしい。ここまでアメリカの話であるが、日本の芸術系大学からはまだそういった話は聞かない。日本はまだ芸術に対して理解があるのかもしれないと思った次第である。

 これから先、日本も芸術の商業化が今以上に進んでいくのか、それとも新たな芸術の場が出来ていくのかは予測できないが、どちらにせよ企画書の見えない芸術であってほしいなとは思う。

 ところで、研究会のあとの飲み会の話は明日の日記に続く。ネット上の人のつながり方に始まり、手軽な自己表現にまつわる考え方で終わる話である。