こんなのでいいんだ感。

 昨日予告したとおり、本日の日記では、ネット上の人のつながり方に始まり手軽な自己表現にまつわる考え方で終わる話を書く。

 内容としては昨日の日記とはつながっていないが、まず昨日の日記のことを書く。先日、AVIRG(視聴覚情報研究会)という研究会に行き、講演を二つ聴いて、そのあとの小規模な飲み会に行ってきた(私は身体的な都合により酒もウーロン茶も飲めないのでオレンジジュースだったが)。飲み会で二時間くらい喋ったうちの半分ほどを昨日の日記に書いた。本日の日記の内容はもう半分である。まとまりにはやや欠けるかもしれないが、酔っ払いの話なのでそのあたりは許してほしい。主に、多摩美術大学のデザイン系の人との話である。

 話はその日の講演の内容から始まった。講演の内容を強引に短くまとめてしまえば、「現実の世界の人間関係をネットの世界に反映させてみよう」という話だった。よく小学校の前を歩いているがこの小学校ではどういった芸術活動が行われているのだろうというのを可視化してみたり、老人会ではどういった盆栽が品評されているのだろうというのを可視化してみたりという話である。私はその講演を聞いていて、では結局現実の世界で活動的な人がネットでも活躍することになるではないかと感じた。それでは私には面白くない。秋葉原の連続殺人事件の犯人と似た境遇の人がネットですら声を発することのできない世の中になってしまうと思ったからである。できれば、ネットの活動が現実の世界に反映されるような話の方が私には面白い。

 私がそう語ると、「オフ会」というキーワードが出てきた。十年前の方がオフ会に気軽に行けた気がするという話である。なぜ昔のオフ会の方が気軽だったのか。それはネット上での目立ち方の度合いがフラットだったからではないかという話になった。私もちょうど十年ほど前からインターネットを使っているが、確かに目立ち方の度合いはフラットだった気がする。その頃からすでに分野ごとの中心的な役割を担うサイトは存在していたが、そういったサイトからは「相互リンク」が張られていて紹介文が書かれていた。今はブログの時代になった。目立つ個人ブログと目立たない個人ブログの差が激しく、オフ会参加への心理的障壁が高い。

 そんな話をしていると、「コンテンツ」というキーワードが出てきた。ネットで目立つ人、あるいは現実の世界で目立つ人というのは、何か特殊なコンテンツを持っていると思いがちであるが、コンテンツは特殊でなくていいのだという話である。特殊というのは例えば、ある分野で最先端の流行を追っていたりとか、その人にしかできないことを持っていたりとか、そういうことである。そうではなく、コンテンツは何気ないものでいいのである。飲み会だったので刺身が目の前にあったのだが、その刺身がおいしかったということを書けばそれはそれで一つのコンテンツであるという、例えばそういうことである。その刺身はその人固有の体験である。コンテンツが特殊である必要はない。

 その批判として、「蓄積」という言葉が出てきた。たとえ刺身が一つのコンテンツだとしても、その後ずっと刺身について、あるいは魚について、あるいは食物について継続的に書いていかなければコンテンツたりえないのではないかという話である。誰が、一度刺身を食べただけのウェブサイトを見にいくのだろうということである。

 いや、そんなことはない、ということで「幅」というキーワードが出てきた。蓄積は時系列であるが、時系列でなくてもいいのだという話である。飲み会だったので、そのテーブルにはサラダもあったし、チヂミもあった。全て書いたら一つのコンテンツたりえるということである。

 その幅の例として「冊子」というキーワードが出てきた。多摩美のとある先生は、学生にいわゆるレポートを書かせないのだそうである。その代わりに、学生たちの書いてきたもので冊子を作るのだそうである。提出する分量はレポートと同じだが、書いたものが本という形式になると考えると、学生の意識が変わり、提出物の質が高まるのだそうである。冊子となるとそれはもう一過性の非蓄積物ではなく、一度しか提出していないにもかかわらず幅のあるコンテンツとなる。

 それに対し、学生の意識が変わるのは「美大生」だからではないかという話が出てきた。美大生は小さな頃から絵に関しては人目にさらされることに慣れており、冊子の形式になるということがどういうことなのかということを知っているのではないかということである。それは確かにそのとおりであるらしく、工学部の人間が美大に行くと、全ての学生の作品がさらされているということに驚くということである。工学部にも刺身だけのコンテンツに価値があることを知っている人はいるが、そういう人はどこか芸術家気質があるように見受けられる。幅のコンテンツ、あるいは一過性のコンテンツに価値があると思える作り手はどれほどいるだろう。

 そこまで話したところで、「他者からの評価」というキーワードが出てきた。一過性のコンテンツに価値を見出すことができない人というのは、何かを作る前に他者からの評価を気にしてしまうのではないかということである。コンテンツを作る前に「どうせ評価が得られない」と思ってしまうのである。

 それに対して、まずは作ってみて「こんなのでいいんだ」と思えてしまう人が幅のコンテンツや一過性のコンテンツを作ってしまうのだろうという話が出た。作る前から他者からの評価を気にして「どうせ評価が得られない」と思うのが先か、作ってみて自己評価で「こんなのでいいんだ」と思うのが先か、という部分がコンテンツの作り手になるかどうかの分かれ道である。コンテンツを持ちたければ、とにかく簡単に作ってみて自己評価で「こんなのでいいんだ感」を得ることである。

 その日の結論は、「こんなのでいいんだ感」だった。ウェブと現実世界の関係という最初の話からずいぶんと遠ざかってしまった気もするが、飲み会というのはそういうものである。