そもそも研究って何?
まだ学生なので私は未熟な答えしか持っていないのだが、本日の日記では少々突っ込んだ話題をとり扱おうと思う。
「そもそも研究って何?」
という話題である。私が博士課程の学生であることを知ると、結構な数の人がこの疑問を口にする。こういった捉えどころのない質問に対しては、例え話で切り返すのが手っとり早いのであるが、少し前まではよい例え話が見つからず苦労した。仕方がないので、「新しい価値尺度を生み出す作業」などと分かったような分からないようなことを言って煙に巻いていた。今は、それなりによい例えが見つかったので、「あんな感じのやつ」と説明している。現在私が研究を何にたとえているのかは、後述する。
まず、新しく研究室に入ってきた四年生に対してどのように研究という概念を伝えているのかということを紹介する。この場合、相手を煙に巻くことが許されず、かといって、難しい話をしすぎて相手を混乱させてもいけない。必然的に、「聞けばなんとなく行動できる」という具合の説明となる。
新四年生に対しては、まず、論文誌というものを見せる。この世の中には「学会」というものがあって、そこに論文を投稿するといい論文は採用されて論文誌に載り、悪い論文には落選通知が来る、ということを説明する。そして、どんな論文が「いい」とされ、どんな論文が「悪い」とされるのかを次に説明することになる。つまり論文の評価基準である。
論文の評価基準は(工学系の場合)三つである。一つ目は「新規性」であり、他の人がまだ書いていない内容であること。二つ目は「有効性」であり、それが役に立つ内容であること。三つ目は「信頼性」であり、それが偶然に生じた結果ではなく理論に裏付けられたものであること。これらの評価基準で論文は審査される。
研究室の研究の半分以上は論文誌に載るような論文を書くことを目指しているため、上記の評価基準はそのまま研究の大きな指針となる。新四年生には大まかなテーマが与えられるので、そのテーマの範囲で「新規性」と「有効性」と「信頼性」を満たすような行動をするように言う。あとは、それぞれに細かく指示を出したり出さなかったりする。
ただし、この説明は、研究の概念を伝えているというよりは、行動指針を与えているだけである。その行動指針に従えば、もしかしたら研究らしきものができるかもしれない、という程度の説明である。研究そのものの説明ではない。以下、もう少し本質的な説明を試みる。
研究についての説明をする前に、前準備として「教育とは何か」について説明をすることを考える。
教育について説明をするときには、「生徒に知識や考え方を伝えること」という目的から話すものと思われる。そしてその後、「具体的には数十分間の授業をしたりテストをしたり採点をしたりする」という手段を語ることと思う。つまり、何か職業について説明するときには「目的と手段」の両方を説明することになるのだろう。研究についても「目的と手段」を語る。
研究の目的を大雑把にいってしまえば「未知のものごとを既知にする作業」となる。この目的を達成するためには、「未知のものごと」を定義し、「どうやったら既知となったことになるか」を定義しなければならない。だから、研究の目的を次のように言い換えることもできる。「未知のものごととそれを既知にする方法を定義する作業」。分野によって「未知のものごと」は異なるし、「既知にする方法」も異なる。
「未知のものごと」の種類は多岐に渡る。分かりやすいところから並べていくと、「新しい物質の性質」「未知の物質の存在」「確立されていない手段」「未知の因果関係」「未知の概念」「体系づけられていない知識」などなど。それぞれが研究の対象となる(もちろんほかにもいろいろとある)。この中では、「確立されていない手段」についての説明が私にとっては最もおこないやすいので、以下、これを例にする。ところでここまでが研究の目的の説明であり、ここからが研究手段の説明となる。
具体例がほしいので、「電話」を例にとって説明をしようと思う。
研究の始まりは、まず「未知のものごと」を見つける作業である。電話の場合には「離れた場所に瞬時に声を届けたい」という目的を見つけることに相当する。研究の一連の流れの中では、ここが最も難しい。
次に、「どうやったら既知となったことになるか」を考える。これは「誰でもいつでも瞬時に遠くに声を届けることができることを保証すること」となる。この定義をしっかりしておかないと、どこに突き進んでいけばいいのかが分からなくなる。
これらの「未知のものごとを既知にする手段」についての具体的な方法について説明する(ただしベルが実際にどう研究したのかが分からないのでこれから書くことは私が説明のために作り出した例である)。
まず、問題をいくつかに分割する。この場合の問題は「離れた場所に瞬時に声を届けること」であるので、「離れた場所に瞬時に何かを届けること」と「どこかに声を届けること」の二つに分割できる。このように、問題を作ったら、まずは問題の分析から入るのが常套手段であると思われる。
次に、「離れた場所に瞬時に何かを届ける手段」を作り出す。これはすでに存在する方法でもいいし、自分でその手段を作ってしまってもいい。この「離れた場所に瞬時に何かを届ける手段」はいくつ考えてもよい。実際には「電流は瞬時に伝わる」ということを考え出すことになる。
それと並行して、「どこかに声を届ける手段」を作り出す。この手段もいくつ考えてもよい。とにかく、分割した問題に対して解決方法を見いだすということをする。実際には「糸電話ならある程度遠くに声を届けることができる」と考えたはずである。
それぞれの手段が見つかったら、それらを組み合わせる。それぞれの分割した目的についていくつかの手段があるはずなので、組み合わせの手段もいくつもあるはずである。手段を組み合わせた結果、「糸電話の糸を電流にしてしまう」という方法論が打ち立てられる。つまり、「電話」の試作品の完成である。
ところが、ここまででは研究にはならない。この先が重要である。
「誰でもいつでも瞬時に遠くに声を届けることができること」を保証しなければ「偶然声が伝わっただけじゃないか」とほかの研究者に言われてしまうので、「偶然ではない」ということを主張する必要がある。
保証すべきことは「誰でも(どんな声でも)」「いつでも瞬時に」「遠くに(どれくらい遠くまで可能?)」「声を(声以外の音があまり乗らないように)」「届ける(どんな条件下なら届く?)」などである。これらを一つ一つ検証し、「偶然声が伝わったわけではない」ということを主張する。これは非常に根気の要る作業である。
最後にこれら全てを文章にまとめ(母語か英語。ただし、今は英語が主流)、論文の体裁を整えて学会に投稿する。投稿した論文の審査員(やはり同じ分野の研究者)が審査して採録するか不採録とするか、または条件付きで採録にするかなどを決めて、最終的に論文として学会誌に掲載されたりされなかったりする。学会誌に掲載されたところで、ようやく研究終了となる。
と書きたいところであるが、まだ研究には重要な仕事が残っている。「教育」の例でいえば「教育が社会の中でどのような意味を持っているのかを見据える」ことが重要事項になるように、研究も「その研究が一般社会や学術的な社会の中でどのような意味を持っているのかを考える」必要がある。これをしないと「何も考えていない」と言われることになる。もちろん、この「社会の中での意味」も論文中に書かなければならない。少なくとも学術的な意義を書かないと意味のある研究とはならない。
簡単にまとめると、「問題を発見し」「その問題のゴールを細かく定義し」「問題の社会的意義について考察し」「問題を解き」「解法が妥当であることを証明し」「それらを論文にまとめる」ということをすると研究になる*1。
ただ、このようなことを書いても、研究について説明をした気分にはなれない。なぜなら、この文章を読んでも研究ができるようにはならないからである。もっと具体的にイメージをつかんでもらうために、「後述する」と冒頭で書いた例え話をこれから書く。
私が最近、研究というものを説明するときに使っている例は、「トリビアの泉」という番組である。この番組は視聴者から寄せられた「トリビア=無駄知識」を毎週複数個ずつ紹介している(かなり有名な番組なので詳細は語らないが、この文章を読んでいるあなたが見ていなくても、あなたの友人の誰かは見ているはずである)。この「トリビアの泉」の中に「トリビアの種」というコーナーがある。このコーナーがいわゆる「研究」のイメージに近いと私は思っている。
この「トリビアの種」というコーナーは、視聴者から寄せられた疑問を実験で試してみることにより新しい知見を得るというものである。例えば、視聴者が「僕は犬を飼っていて、犬は結構飼い主思いだと思うのですが、もし僕が倒れたら犬は助けてくれるのでしょうか」という疑問を番組に寄せたとする。すると番組側は「散歩中に飼い主が突然倒れたとき、助けを呼びに行く犬は百匹中*匹」と疑問を実験で試すことのできる形式に言い直す。その後、実際に百組の「犬とご主人様」で実験をする。そして、「*匹」のところを具体的な数値に直したところでコーナーは終わる(なお、このコーナーのバラエティ番組としての面白さは、疑問が解決されてもなんの得にもならないという部分にあると思われる)。
このコーナーが研究に近い点は三つある。一つ目は「疑問に新規性があること」である。二つ目は「疑問を実験できるかたちにしている部分」である(この作業を「定式化」などと呼ぶ)。三つ目は「実験に(ある程度の)信頼性があるところ」である(バラエティ番組なので半分はふざけているが方向性としては信頼性が得られるように実験をしている)。
もしこのコーナーで紹介される疑問に「社会的意義または学術的意義」がそなわったらそれは「有効性がある」と見なされ研究になり得るかもしれない(番組自体が「無駄であること」を楽しんでいるので「有効性」は注意深く消されているが)。
つまり、研究とは「社会的・学術的意義」のある問題を「トリビアの種」の手法で解決することである。
以上で、「そもそも研究って何?」の私なりの返答を終える。
ところで、私はまだ研究者にはなれていない(査読つきの論文は二つほど出しているが)。よって、上記の内容はおそらく未熟なものであると思われる。ウェブ上にブログやサイトを持っている現役の研究者はわりといらっしゃるようなので、ぜひとも「そもそも研究って何?」への回答を書いていただきたいと思う。「研究が何であるのかを知るために研究しているのです」とか「(研究室を持っているにもかかわらず)まだ修行の身ですから」などと言うのはかっこいいかもしれないし回答としては正確かもしれないが、そういった回答では後進を育てることができない。
*1:なお、この順番は分野によって大きく前後する。畑違いの人と喋ると、「問題を作る前に問題を解く」人もいるようである。これについてはいつか何か書く。