卒業証書にランクをつけてもいいのでは。

 五月二十一日に「愚痴として書く」と書いていたことを本日の日記では書こうと思う。研究室のどうしようもない現状への愚痴である。

 私は、学部四年および修士二年間の合計三年間を過ごした研究室と、博士課程を過ごしている研究室が異なる。これは、修士課程を私が卒業すると同時に、指導教官も退官されたからである。よって、私は二つの研究室のことを知っていることになる。

 私が愚痴を書こうとしているのは、現在博士課程で在籍している研究室のことである*1

 二年前の四月、私は今の研究室に配属された。私が最初に驚いたのは、修士や学部が指導教官と研究について話し合う時間が設けられていないということだった。そこで、「いつ研究の話をしているのか」ということを後輩たちに訊いてみた。その結果、教授の居室に行けば研究の話をしてはくれるがほとんど話し合ってはいない、ということが判明した。修士ですらその調子なので、学部はもちろんそれが普通の研究室だと思い込んでいた。これでは、修士や学部は研究ができない。

 研究室が研究をしないのはおかしいと思い、そのとき周りにいた学生に、学生同士で研究に関してのミーティングを開くことを提案した。私はほぼ満場一致で受け入れられることを期待していたのであるが、結果としては全員が反対または回答保留という有り様だった。私はかなりの衝撃を受けた。

 私がその研究室に配属された最初の年は、後期になってようやく教授と助手に対して数十分ほど研究内容を報告する時間が設けられた。ただし、修士一年は報告せず、修士二年と学部のみが研究状況を報告する。また、そこで教授や助手が学生たちの報告に対して否定的見解を述べることはなく、ほぼ全ての報告に対して「ああそうですか」と返答していた。議論はほとんどなかった。

 当然のことながら、卒業論文修士論文ともに、過去に卒業していった先輩の論文の書き写しのようなものばかりとなった。私に採点権があったら、全員にこっそり不可をつけているところだが、論文を書いた人は全員卒業していった。

 翌年度が始まる前に、教授に「もっと研究らしい研究をしませんか」と提案したが、二年目も同じようなものだった。やはり、面白くない論文ばかりで全員が卒業していった。ただし、私が一年中「去年の論文はつまらなかった」と言い、何がつまらないのかを語っていたため、多少は意識の改善が見られたと思う(ただし行動は改善されていない)。

 そして、今年であるが、研究室の目につくところに「研究室は研究をしないところではない」と書いた貼り紙を貼ることから始めた。そして、最年長権限で、学生ミーティングを自由参加でおこなっている。ようやく最近になってその成果が現れ、普段から学生たちの間で研究に関する具体的な話が出てくるようになった(昨年までは「研究どう?」「まあまあ」のような会話が精一杯だった)。今年の卒業論文修士論文がどうなるか、楽しみである。例年と同じ有り様でも、すべきことはしているつもりなので、悔いはない。

 ところで本日の日記の題名に戻るが、卒業証書にランクづけをしてもよいと思う。現在の日本では卒業研究に着手する前に就職先が決まってしまい、私の大学では就職先の決まった学生を落第させるということはない。つまり、ほとんどのうちの学生は卒業研究に着手できたら卒業ができてしまうのである。これでは卒業研究に対して熱意がわかないのも無理はない。だから、卒業証書にランクづけをしてもよいのではないだろうか。頑張った学生には「A級」をつけ、頑張らなかった学生には「B級」をつける。卒業研究発表会には十人以上の教官が見に来るため、かなり公平にランクづけをおこなうことができるはずである(その学生が真面目に研究をしたのかどうかは教官たちには分かる。発表では分からなくても、質疑応答で分かる)。

 また、「B級」の卒業生ばかりを出してしまった先生は肩身の狭い思いをするはずなので、研究指導にも熱が入るのではなかろうか。

 ところで、研究室のことを悪くは書いたが、教授と助手の人柄はよい。ただ単に、研究指導をしないだけである。博士課程の学生としては、かえって研究指導などない方がありがたいので、私にとってはとてもよい先生方である*2

*1:いつか、以前在籍していた研究室のことも書こうと思う。美談として書く。

*2:博士への研究指導の話題に関しては、またいつか書く。