「多数決は多数派が勝つ」ことに関して。

 選挙が終わったので、改めて外山氏のこの発言について考えたいと思う。一連の外山氏の政見放送は常識的には非難されるものではあったが、多くの人が部分的に共感したのではないかと思う。共感した人は「少数」ではないはずだ。

 なぜ共感するのかといえば、簡単にいってしまえば「何も言っていないから」である。今日の日記の題名の「多数決は多数派が勝つ」というのは(言語行為論的に考えれば充分にパフォーマティヴではあろうが)トートロジーであり何も言ってはいない。にもかかわらず、その前提として「喋っている私は少数派である」ことを宣言しているために、「多数決は悪だ」ということをさも論理的且つ客観的に語っているように感じさせてしまう。素晴らしい修辞能力である。

 修辞的なことを抜きにすれば、外山氏は政見放送においてなにも語ってはいない(少なくともコンスタティヴには語っていない)。ただ、抽象的でノスタルジックな単語を散りばめているだけである。抽象的でノスタルジックな単語に当てはまる事象は、誰もが経験しているがゆえに共感を得やすい。また逆説的ではあるが、何も語っていないがゆえに、自分の主張を代弁している気にさえさせられる(もちろんそれは修辞能力があっての話ではあるが)。

 思えば、村上春樹が売れるのも「抽象的でノスタルジックな言葉を用いて何も語っていない」からであろう。読者には彼の文学が自分の代弁をしているように感じられてしまうのである。また、春樹以外にも近年のベストセラー作品には抽象的でノスタルジックな言葉を用いて何も語らない作品が多いと感じている。話はややそれるが、近年文学的とされるもののほとんどは広義のトートロジーで文章が構成されている作品なのではないかと感じている*1

 「多数決は多数派が勝つ」という科白は、結局のところ、多数の人々に共感が得られるような修辞法を用いている。もしも本当に少数派に語りかけたいのならば、まともなことを具体的に言えばいい。外山氏が何を考えていたのかは分からないが、あの政見放送には多くの人に受け入れてもらうための修辞法が用いられている。

*1:そして私はそういう作品が好きである。