イノベーションは多分これからさらに減っていく。

 本日の日記も引用から入る。

でも、企業の「研究所」っていうものが、「本質的に新しいこと」をしようとしているケースは、世間が考えるより少ないんじゃないかなあ。

http://semiprivate.cool.ne.jp/blog/archives/000719.html

 (中略)

まあ、それは大学でも同じかもしれないけどなあ。

 この文章を書いた方がどのような経歴の持ち主なのかは存じ上げないが、まさに「大学でも同じ」である。大学も「本質的に新しいこと」をしようとしているケースは少ない。大学は企業よりは本質的に新しい研究をしやすいように思えるし、事実そうなのかもしれないが、大差はないだろう。大学での研究も引用元が言っているように「何パーセント向上しました」という泥臭い作業がほとんどである。

 本質的に新しいことができない大きな原因に、「論文の数を稼がないと教員が生き残れない」という現状があると思う。「何パーセント向上しました」系の論文は「本質的に新しいことをしました」系の論文よりも論文数が稼ぎやすい。ゆえに、(読んでいてつまらない)「向上系」の論文が量産されることとなる。また、博士課程の学生もなるべく早く学位を取得する必要があるため、「向上系」のテーマに手を出すこととなる。「博士が使えない」としたら、「向上系」の研究しかしたことがないことも一つの要因ではあると思う(もし本当に「新しい」ことができる博士を採りたいのならば、「新しい系」のテーマに手を出しているかを調べるべきだろう)。

 大学のこの傾向は年々加速しているように思える。論文を書くにあたり、「向上系」のテーマの場合には「性能向上」のみに気を配ればよいが、「新しい系」のテーマの場合には「新しさ」に関する論理武装と「性能」の有効性の両方に気を配る必要があり、しかも「新しさ」の論理武装がかなり頑丈でないと査読には通らない。「新しい系」に挑戦しがちな教員は論文数の少なさで淘汰されていくため、自然と「向上系」のテーマに強い教員が大学に残ることとなる。それに伴い、論文の審査も「向上系」寄りとなる。悪循環である。

 今の日本には、もはや「本質的に新しいこと」をしている研究者は一握りしか存在していないのではないかと思える。「一握り」存在しているだけでも奇跡ではある。