当たり前すぎて教えてもらえない研究のこと。

 下記二つの記事を読んで、どうにも違和感があった。大学の研究室での研究に関して、何かとんでもない前提のすれ違いがあるのではないかと思えた。この違和感は学生時代にも後輩に対して覚えていたのだけれども、どういった前提が食い違っているのかがどうにもつかめなかった。先日、下記二つの記事を立て続けに読んで、ここではないかと仮説を思いついたので、書いておく。

 なお、本日の日記の内容も基本的には工学を想定しているが、ある程度は文系にも当てはまるのではないかと思う。

 詳細は述べないが修士研究がつまらない。研究の目的が矮小で研究の手法が非現実的なものに感じられる。

メモを捨てろ、本を捨てろ、そのでかい鞄を捨てろ。そんなものに頼るんは自分に自信がないからや - ミームの死骸を待ちながら

卒研は院生の下につく形で,動画のクラスタリングをテーマにすることになった.が,これは2ヶ月くらいで面白くなくなった.詳細は省くが,今振り返っても問いは適当,手法は穴だらけで,結論は応用がさっぱり期待できない.ショボい卒論の作り方にきれいに当てはまっていた.

進学たられば恨み節 - いまだに落ち着きのない三十路(アラフォー)

 一見すると与えられたテーマに関する問題にも見えるが、この文章をテーマ選びの問題として捉えてしまうと、おそらく何も解決しなくなる。学生は大抵とりかかりやすさを目安にしてテーマの面白さを評価する。ここでいうとりかかりやすさというのは、問いの認知度、結果の分かりやすさ、解決手法の派手さ、解決手法の適用のしやすさ、などである。けれど、そういった意味でのとりかかりやすさの高いテーマというのは、テーマのオリジナリティが極めて低い。つまり、学術的に面白くないテーマである。

 では、学術的に面白いテーマというのはどのようなものなのか。そのことを説明する前に、題名に掲げた「当たり前すぎて教えてもらえないこと」を書こうと思う。

『研究は難しい』

 これである。学生はそんなことは知っていると思うかもしれないが、どのような方向性の難しさなのかは知らないと思う。私は、研究の難しさというのは次の二つだと思う。

『時間がかかる』

『先が見えない』

 動画クラスタリングの学生(といっても私と同い年か一つ上だが)はエントリ中にテーマを「動画クラスタリング」と明記してくださっているので、こちらを例にとろう。動画のクラスタリングというのは、おそらく、シーンごとに分割された動画の分類を自動的におこなうということだと思う。これ自体は確かに、問いとして面白くも何ともない。元エントリの書き手が卒業研究生だった頃にも、類似研究はたくさんあった。つまり、この時点では「先(完成形)は見えていない」。

 問題はそのあとである。研究分野が近いから分かるが、この「動画のクラスタリング」というのはテーマが展開していく可能性を秘めている(事実、類似研究・派生研究の成果はいまもって論文誌の査読を通過しているのだ)。教員の与えた動画のクラスタリングというテーマは、そこまでならば価値はないが、そこから学生がテーマを発展させるとすごい価値を生む可能性がある。

 では、どうやって学生がテーマを発展させるかということだが、これが「とても難しい」。また、「時間がかかる」。具体的には、とにかく命じられた作業をすることである。動画のクラスタリングならば必ず動画同士の距離を測る方法を作れと言われるはずである。できてもできなくてもいいからとにかくそのことについて半年くらい考えていくと、どこかにその学生にしか思いつかない「間違い」が出てくるはずである。必要なアルゴリズムが抜け落ちていてもなんとかなると思っていたり、うまくいくはずのないアルゴリズムが埋め込まれていたり、問題自体を勘違いしていたりするはずである。とにかくそういう「間違い」が出てくる。「間違い」というのは、常識的ではない部分のことであり、裏を返せば「オリジナリティ」である。教員は、オリジナリティ溢れる「間違い」を待っている。そして、その「間違い」をうまく活用すると、テーマが発展する。

 前回の日記で、修士論文が国内の英論文誌の論文になった私の後輩のことを紹介したが、彼も私の問いに対して「明後日の方向の回答」を示した。その回答が、論文の採録につながっている。

 テーマを発展させるためには、間違いや勘違いを犯すのが近道であり、間違いを犯すためにはねばり強く「時間をかけて」問題にとり組まなければならない。実は、教員の与えるテーマというのは、そのままでは面白くも何ともないが、高い確率で「個性的に間違う」ことのできるものなのである。

 もし、「間違っている」にもかかわらず、テーマが発展しそうにないとしたら、それは「ありふれた間違い」だからである。どのようなテーマでも、最初の数ヶ月は、誰でも同じ間違いをする。初心者の間違いなど、類型化されている。けれども、一所懸命になればなるほど、間違いが類型を外れていき、「個性的な間違い」となる。テーマを発展させるためには作業量が必要なのである。

 この必要な作業量がどれくらいかということだが、抽象的な言葉で言えば、「もうこれ以上改良の余地はないはずなのにどこがおかしいのだろう」と五回ほど途方に暮れるくらいである。それくらいの作業をこなすと、「個性的な間違い」が出る。私が修士のときには修士一年の二月まで、ずっとうまくいかない日々を送っていた。とにかく、研究というのは最初は「先が見えない」。そして、「時間がかかる」。

 なお、類型的な間違いなのか「個性的な間違い」なのかは、教員に聞けばすぐに分かる。類型的な間違いは教員の頭の中にデータベース化されているが、「個性的な間違い」はデータベース化されていないからである。

 おそらく、研究室の研究に不満を持つ多くの学生は、研究には時間がかかるということを知らないのではないかと思う。そして、与えられたテーマに息吹を吹き込むのが学生の役割だということも知らないのではないかと思う。

 12時間拘束という、爆破されてしかるべきこの研究室にいる以上、絶対的な時間は削られる。
 わずかな抵抗として家庭教師の仕事を辞めたり、早寝早起きを心がけたり、用がないのにコンビニに寄るのをやめたり、だらだらTwitterをやめたりというライフハックを敢行。
 あとは就活、iGEM、アルバイトなどなるべく「公的」な用事をたくさん入れて、研究室にいる時間を減らす。

メモを捨てろ、本を捨てろ、そのでかい鞄を捨てろ。そんなものに頼るんは自分に自信がないからや - ミームの死骸を待ちながら

 時間を削れば削るほど、研究はつまらなくなっていく。

つらい時期だから思い出は恨み言だらけだ.週1のゼミで「画像から必要な情報を抽出するプログラム」の進捗報告が続く.教官からは「精度良くないね,改善できないの?とりあえず動くもの作ろうよ」それだけ?

進学たられば恨み節 - いまだに落ち着きのない三十路(アラフォー)

 それ以上の助言を与えたら、「個性的な間違い」が出なくなる。

 修士への進学を考えている人は、「先が見えない」まま「時間をかける」忍耐力があるかどうかを自分に問うた方がいい。とはいえ、そんな忍耐力のある学生などほとんどいないので、九割の学生は「先が見えない」まま二年間を過ごすことになる。仲間はたくさんいるので安心していい。