「だから」の推進力と「しかし」の倫理観。

 西洋を中心に科学は発展してきたが、そこで用いられてきた「科学的な考え方=合理性」を人間に要求すると不幸を招くのではないかと思っている。本日の日記では、このことを「だから」と「しかし」という二つの接続詞をキーワードにして語る。なお、今回の日記は妄想の範囲なので真に受けないでほしい。

 まず、科学の思考方法を簡単に説明する。科学研究では、最終的に論文にまとめるときには、「AだからB、BだからC、CだからD、DだからE、ゆえに、AだからEとなる」のように基本的には「だから」の連鎖で最初から最後までが繋がるように書く。もしも、「AだからB、だけどきっと、Cという事実が言える」のような論文を書いてもまず論文の審査には通らないし、通ったとしても世間から誤った論文として扱われることになる。要するに、科学の考え方の基本は「だから」である。言い方を変えれば「なぜ・なぜならば」である。プログラムの用語でいえば、「if-then」である。

 そして、この「だから」のみしか許さない論理は「最初の命題さえ間違えなければ最後まで正しい」という点で強力だったがために、科学が飛躍的に進歩したのだろうと私は考えている。そして、日本経済も(そして先進国と呼ばれる諸国の経済も)、この「だから」しか基本的には許さない経営体制の下で発展してきたのだろうと思っている。

 けれど、「だから」のような順接の接続詞は接続詞の半分でしかない。人間は「しかし」のような逆接の接続詞も持っており、実際の会話では逆接の接続詞は頻繁に使われる。つまり、科学は人間の能力の半分をそぎ落とすことによって発展してきたものだと解釈することができる。

 科学が「だから」のみを扱うことに異論はないが、私が現在問題だと思っているのは人間の生活そのものから「しかし」がそぎ落とされているように感じられることである。「しかし」が奪われると大きく分けて二つの問題が出てくると思われる。

 一つ目は、抽象的にいえば、目的のためには手段を選ばなくなるという問題である。具体例を挙げるとするなら、例えば、会社を存続させるためにどうすればいいかということに対して人員削減という解答を出してしまったり(それは有効な一つの手段ではある)、戦争を終わらせるために二発の核爆弾を投下するという解答を出してしまったりする(これも手段と目的はねじれていない)ということである。ここで、「(しかし)ちょっとやばくね?」と暴走を食い止めることができるのが、私は人間なのだと思う。けれど、逆接の接続詞が封じられてしまっていると、暴走を止めることができない。

 もう一つの問題は、あてどのない理由探しをしてしまうという現象である。「なぜ人を殺してはいけないんですか」という質問が脚光を浴びたことがあるが、この質問の裏側には「全ての命題には『だから』という理由があるはずだ」という考え方がある。そして、もしも理由が見つからなかったら「つまり人を殺してもいいんですね」という考え方が展開される危険もある。そもそも物事に理由があることの方が珍しいのであって、珍しいからこそ「科学」が難しいものとなっている*1。もし、「だから」は世の中の半分でしかない、という認識をしていれば、理由探しをすべき場合とすべきでない場合があることは理解できるものと思う。

 逆接の「しかし」という単語には一般的に「否定」のイメージがあると思われるが、実際には否定をしていないことも多い。

  • 降水確率は70%だ。しかし、結局、曇りだった。

という例文では「降水確率が高ければ雨が降るだろう」という推論の結果を否定しているともとれるが、次のような例文では、単に対比をしているだけである。

  • 兄は背が高い。しかし、僕は背が低い。

このとき、対比されるべき事実が二つあることを語るために「しかし」は存在しており、決して何かを否定しているわけではない。むしろ、対比される二つの事実の両方を肯定しているのである。

 あなたはイスラム教「だが」私はキリスト教だ。お互い仲良くしよう。

 順接の「だから」には物事を一つに決めるイメージがあるが、逆接の「しかし」には二つの異なる事例を並記する力があるように思う。「しかし」は否定をするための接続詞なのではなく、他者を尊重するための接続詞なのだろうと思う。他者尊重のそぎ落としは科学の範囲のみにとどめておいて、人間は全ての接続詞を使っていくべきなのだろうと思う。

 科学は科学的であるべきだろうが、人間は科学的であるべきではない。

*1:あてどのない理由探しの最悪の事例は、ユダヤ人迫害ではないかと思っている。また、9.11から劣化ウラン弾に至るまでの経緯も理由探しの事例ではなかろうか。