科学と正義。

 ものすごく簡単にいってしまえば、科学の歴史というのは計測と分類の歴史である。オームの法則というのは電気抵抗と電位差と電流を計測することができなければ確かめようがない。食塩がNaとClから成り立っているといえるのは原子が分類されているからである。さらに時代をさかのぼれば、カレンダーの作成は計測であるし、農耕作業は作業工程の分類なしには成り立たない。記憶に新しいところでは、冥王星の降格は計測作業と分類作業の結果である。

 この計測と分類は科学を発展させてきたばかりではなく、人間の仕事をも効率化させてきた。人は、職業によって分類され、さらに配属部署によって細かく分類される。また、業績や能力によって計測され、相応の給料が与えられる。現在の人間は、いわば科学的に働かされている。仕事ばかりではなく、法律も項目ごとに分類され、ときに定量的な判断を下す。例えば、「お酒は二十歳から」など。

 要するに、計測と分類は、世界から多義性と曖昧さをそぎ落としていった。そして、今、「多義性と曖昧さをそぎ落とされた正義」が作られているような気がしている。善悪が客観的に決められてしまう世の中になろうとしている気配がする。例えば、どの宗教が善でどの宗教が悪か、といったことが当事者の話し合いなしに決められる日が数年以内に来るような気がしている。

 けれど、そもそも人間というのは、人によって価値観が異なる。多義性と曖昧さをそぎ落とした統一思想など作れるはずがない。科学は人々に様々な恩恵をもたらしてきたが、人間までもが科学的に生活する必要は全くない。人間はむしろ、「それぞれに」「適当に」暮らすのが妥当である。

 人間の素晴らしいところは、「それぞれ」「適当に」という概念を持っているところだと思う。それが、情報工学を専攻していて毎日計算機に触れている私の感想である。機械に「それぞれ」「適当に」を実行させることは今のところできない。

 本当の正義というのは、「それそれに」「適当な」ものだと思う。そして、正義という語感から離れて、それはもはや、イデオロギーでも何でもない。

 科学というのはイデオロギーである。