的確な質問をしようとすると空回りする。

 本日の日記は親しみのわく教員の例。の補足でもあり、もっと当たり前すぎて教えてもらえなかった研究のこと. - いまだに落ち着きのない三十路(アラフォー)のコメント欄に関連することでもある。

 どの大学にも「分からないことがあったらなんでもいいので質問をしてください」と無茶なことを言う先生や先輩は存在する。そう、これは無茶である。昔から言われていることではあるが、質問ができるのはある程度分かっているときだけであって、まるで分からないときには無理なのである。でも、そのまるで分からないことを質問する方法は存在する。

 結論を端的に言えば、「何が分からないのかが分からない」ということを質問の形式で伝えればよい。以下、具体例を書く。

 例えば、大学の研究室で卒業研究のテーマを与えられたとしよう。そして、そのテーマもその説明も理解できなかったとしよう。そして、教員が「分からないことがあったらなんでもいいので質問をしてください」と言ったとしよう。この場合、普通ならば何も質問はできないはずだが、周りに一人くらいはそんな状況でも質問をしてしまう猛者がいるだろうと思う。そういう人はどこから質問をしていくのか。ずばり「テーマをオウム返しにする」のである。

 もう少し具体的に書こう。「三次元空間におけるマイクロホンアレーを用いた複数話者位置推定」という呪文のようなテーマの題名が与えられたとしよう(私の学部のときの卒論のタイトルだ)。これは呪文のようではあるが、一応日本語なので区切り方は分かると思う。「○○における」「○○を用いた」「○○推定」で区切れる。この三つからランダムにフレーズを選び、例えば「マイクロホンアレーってなんですか?」と訊くのである。これでまずは一つ質問ができたということになる。すでにその部分についての説明はなされているかもしれないが、かまわずに質問をする。次に「複数話者位置推定ってなんですか?」と訊き、最後に「三次元空間ってなんですか?」と訊く。これで、「自分はまるで分かっていない」ということを質問のかたちで示すことができたことになる。

 上の例を再び抽象化するとこうなる。与えられたヒントの中身が分からないときには、とりあえずヒントをオウム返しにして「ってなんですか?」を付け加えるのである。ネットスラングで例えるならば、「日本語でok」と感じたら「○○まで読んだ」と伝えよということである。「質問してくれ」と言っているような先生・先輩ならば、「呪文」が「日本語」になるまで噛み砕いてくれるはずである。

 具体例に戻るが、ある程度作業が進んだがどうにもそれ以上進まなくなったときにはどう質問するのか。常識的な人は「○○の仕方が分かりません」というふうに質問しなければならないと考えがちだが、質問のうまい非常識な人は「現在抱えている案件について今途方に暮れているのですが、何について途方に暮れているのかが自分にも分かりません」などと質問する。最後が「分かりません」なので質問の体裁は整っている。そして、一応自分についての最低限の情報も伝えていることになる。つまり、先生・先輩は、「あの案件について」「どうやら途方に暮れているようだ」ということを把握したことになる。このときできれば、自分が何をやって失敗したのかということを伝えるとなおよい。または、途方に暮れすぎていて何もできていないということを伝えてもよい。

 とにかく、質問というのは「分からないという現状を相手に伝える」ことによってなされるものである。別に、的確に何かをピンポイントに訊くことだけが質問ではない。

 でも、私が本日のエントリで本当に書きたいことというのは、「何か質問はありますか」に対する対策ではない。「何か質問はありますか」に対して質問が本当にできる人は少ないということである。

 そして、質問ができないのは、私の知っているかぎりどの国の人も同じである。私が以前所属していた二つの研究室には短期留学生が毎年入れ替わり立ち替わり来ていたのだが、彼ら・彼女らも質問はあまりうまくなかった。メキシコ・中国・タイ・ブルガリアどの学生たちも質問は下手だった(うまい人もいたが)。だいたい質問のうまさは日本の学生と同じようなものだった。

 中でも印象深いのはとある国からの女子留学生だ。私は彼女とよく雑談をしていたのだが、ときどき「研究どう?」と訊いていた。彼女も私に対して「あなたは?」とたびたび訊いていたので、私は「まあまあ」といつも答えていた。彼女も「まあまあ」と答えていた。私の英語のレベルは高く見積もっても高校生レベルなので、瞬時に詳しく自分の研究状況を語ることなどできなかったが、彼女の自国訛りの英語は見事なものだったので語ろうと思えば語ることができただろう。でも、彼女は「まあまあ」と言うだけだった。その「まあまあ」に微妙な異変が起きたのは短期留学の最終レポート提出期限の一ヶ月前くらいであり、彼女は「まあまあ」と言うのを躊躇うようになった。思い切って、「今どれくらいの期間、研究が止まっているのか」ということを訊いてみた。答えは、「一ヶ月ほど現在の状況で止まっている」とのことだった。このやりとりが日本語だとしても彼女の母語だとしても英語だとしても、危機的状況なのは明白である。ここで言うべき言葉は「do you have any questions?」ではない。日本語だったら、「え、どういう状況なの?」とか「どこでつまっているの?」と訊いてしまいがちだが、幸いにしてそれらをどのように言えばいいのかが分からないほどに私の英語力は貧弱だった。考えた末に出てきた言葉は「do you need my help?」だった。彼女の答えは「yes help me please」であり、私の提案は「i give you my one week」だった。その後、二日間で彼女のプログラムのバグ(10個くらい)があっさり取れ、彼女は一ヶ月間分の張り詰めていた緊張が解けたそうで二日間くらい寝込んだ。

 考えてみれば簡単なことなのだ。「何か質問はありますか?」ではなく、本当に切羽詰まっている学生や後輩がほしいのは、「助けようか?」なんじゃないかと思う。もしかしたらそれは相手にとって屈辱的な言葉かもしれないけれど、困りきった人を困らせているのは「言語化できない何か」であり「解決できない何か」なのである。質問などできるはずがない。そして、困っている人からすれば、究極の質問は「とにかく助けてくれ」という嘆願になるのだろうと思う。できれば、「質問ある?」よりも親しみやすくて「助けようか?」よりも軽い言葉がいいのだが、何かあるだろうか。私が多用していたフレーズは「どこまでとりあえずやってみた?」という状況確認の言葉だったが、これも威圧的で使いどころが難しい。

 ところでこういう話題になると、驚くほど「先生と学生の間」の話しか出てこない。私は結構同級生を助けたり同級生に助けられたりしていたのだけど、同級生は助けてくれないのだろうか。私は音声の分野だけど、同じ研究室の画像の人や音声の人や手話の人や自然言語の人やロボットの人や圧縮の人と、精神的にも数式的にもプログラミング的にもアイディア的にも、サポートしあっていた。普通はそういうことがないのだろうか。今、研究室内での学生同士の関係はどうなっているのだろう。困ったことがあったらとりあえず賢そうな同級生とか人のことを放っておけない同級生とかに相談してみるものなのではないだろうか。