強情な人は性格が強情なのではなく言語能力がないだけである。

 おそらく周りに一人か二人は、「なぜか人の言うことに耳を貸さず」「自分の主張を押し通そうとし」「相手が自分の言うことを聞かないと人格攻撃を始め」「相手との上下関係をひどく気にする」という感じの人がいると思う。一般的にこういった人は「強情」とか「高慢」などというレッテルを貼られるものと思うが、私の経験からすると単に言語能力が足りないだけではないかという気がしている。

 私の経験というのは、周りに強情な人がいて困ったというものではなく、「私自身が強情になっていった」という経験である(もちろん、周りに強情な人がいて困ったこともあるが)。

 私が強情になったのはたった二日間のことである。この二日間、私は、とあるスペイン語圏からの留学生のプログラムの不備を一緒に直す作業をしていた(私は情報工学系の大学院生である)。この例で重要なのは、「会話に使用する言語は原則として英語であったこと」と「私の英語の能力が高くないこと」である。

 私が「強情」になった最初のきっかけは、相手の言っていることが分からないという状況だった。相手がゆっくりと英語を発音してくれてようやく意味がとれるという状態である。この状況に陥ると、相手が何か反論をしても「自分には相手の英語が分からないだけだ」と考えて無視をするかお茶を濁すかするようになる。

 次に「強情」の度合いが増すきっかけになったのは、私がお茶を濁すと相手が「了解した」と言い始めたことにある。おそらく、相手はここで「こいつには何を言ってもとんちんかんな答えしか返ってこないからコミュニケーションは諦めよう」と思っただけのはずである。が、私は「自分の英語の能力は思ったほど低くはなく、むしろ相手のプログラムの能力が低いのだ」と勘違いすることになる。

 さらに、たまに相手が比較的強く反発してくるときがある。例えば「本当にこんなことをしなきゃいけないの?」などと言ってきた場合である。このとき、英語のできる人ならば相手の意見をきちんと受け止めた上で説得するか、相手の意見をそのまま聞き入れるかするはずである。ところが、私は「こいつはただ単にサボろうとしているだけだ」と無根拠に解釈した。ゆえに「日本語には『地道』という言葉があるから日西辞典をひいて意味を調べろ」という訳の分からない人格攻撃をすることになる。

 結果的には、私と相手は二日間でほぼ全てのバグを取り除くことができたわけであるが、このとき相手がとても喜んだのもまずかったと思われる。「自分の英語の能力は高く」「相手のプログラムの能力は低く」「プログラムの能力の低い人には人格攻撃をすればいい」ということを誤って学んでしまう可能性があったからである。もしも、周りが全員非日本語母語話者で、こういったやりとりを毎日繰り返していたら、私は確実に「強情」で「高慢」になっていったことだろうと思う。そして、「本当は自分の英語能力は低いのではないか」という思いに怯えながら、自分の周りにプログラム能力の低い人ばかりを集めるようになったのではないだろうか。

 上記の話の「英語」の部分を「言葉」に置き換え、「プログラム能力」を単なる「能力」に置き換えると、おそらくそのまま「いかに言語能力の低い人が強情になっていくか」というプロセスになるのではないかと思われる。

 もし、日本語の能力が私の英語の能力程度*1で、ほかの能力が周りの人々よりも上回っていた場合、その人は「強情」になる可能性が高い。

 というのが私の立てた仮説である。

*1:TOEIC=600というおそまつな能力である。