役に立つ教育を受けた人が本当に幸せになれているのか、誰か測ってくれませんか。

 この段落、前置きである。巷では履修漏れの問題が採り上げられている。私の出身高校は(今は違うようであるが)、生徒たちを文系と理系には分けなかった。そして、全員に「社会四教科(日本史世界史地理政経)」「理科四教科(物理化学生物地学)」を教えていた。また、数学も文系の人にまで数Cを教えていた。今から考えるとどのような時間割を組んでいたのか不思議であるが、決して無理な時間割ではなかったことだけは憶えている。授業は三年の一月末まであった。ほとんどの生徒がその時期まで出席していた。

 さて、本論に入ろう。履修漏れは「問題」ということになっているが、実際には何の実質的な問題も存在しない。当該高校の生徒も当該しない高校の生徒も科目は違えども同じだけの授業時間をこなしているはずなので、被害者は存在しない。ただ単になんとなく損をした気がしているだけである。被害があるとすれば「動揺した」というただ一点のみであろう。また、被害ではなく「問題」があるとすれば、国の指導方針に沿っていなかった高校があったということのみであろうが、実質的な損は誰もしていない。

 本当に問題があるとすれば、それは国の教育方針と現場の教育方針とのギャップである。今回の件に関していえば、国は広く教育してほしいと考え、現場は狭く教育したいと考えた。両者のギャップを言い表すキーワードは「役に立つ」である。国は役に立たないこともしてほしいと考え、現場は役に立たないことはなるべくしたくないと考えた。この場合の「役に立つ」というのは、大学合格の手助けになるという意味である。では、なぜ現場が役に立つことのみをしたいと考えたのかといえば、それが要求されていたからである。要求したのは、偏差値の高い大学に入れる高校がよい高校である、という世論である。

 実はここで「役に立つ」の意味がねじ曲がってしまっている。本来「役に立つ」というのはいつどのようなかたちで利益を上げてもいいはずである。にもかかわらず、昨今の「役に立つ」は「(一歩先で)役に立つ」という意味になってしまっているように思われる。けれど「遠い将来幸せになれる」という「役に立つ」があってもいいのではなかろうか。

 誰かに調べてもらいたい事柄がある。出身高校別の自殺率の高さである。ただし、高校在籍中の自殺は考慮せず、卒業後の自殺のみをカウントしてほしい。そして、「偏差値の高い大学に入れる高校」と「卒業後の自殺率の低い高校」を比較してみてほしい。おそらく、ばらばらになっていることと思う。もしかしたら、負の相関が得られるかもしれない(これは単なる予想であるが)。

 幸せを自殺率の低さのみで測定するのは無理があるが、それが最も分かりやすい指標であろう。少なくとも、大学合格率よりは幸せを測る指標としてふさわしいと思われる。